2004.07.02

市原寬子先生探しの経緯

 そもそも市原先生探しの発端は韓国シニアネット「元老坊」会員の
金基河さんが、昨年4月26日元老坊ホームページ内に新設された
Kjclub(日本語使用者の集まり)の掲示板に ”愛のBase Camp” という
詩を掲載され、その末尾に「この詩を作りながら、小学校三学年の時、
私の担任の先生 市原寬子先生 の恩恵を(思い)浮かべました」と書い
てあったのがキッカケです。
 早速、私はこの詩に簡単にコメント申し上げて、文末に市原寬子先
生にお見せになったことがありますか?ご存命なら、もう大分お年で
しょうね。と付け加えたのです。
 金基河さんのご返事には「私の拙作な作品をそれ程ほめられては恥
かしい。何としても尊敬している先生のご消息を知りたい。ぜひお会い
したい」とあり、先生の本籍、生年月日、履歴が記されていました。さら
に「先生は本当に私たちを愛してくれました。懐かしいです」と付記して
ありました。

 本籍 熊本縣 熊本市 新屋敷傘八番丁 一二二番地
 生日 大正10年 4月 1日(81才)
 履歴 韓國 公州師範 修了
 韓國 慶北道 英陽郡---英陽西部小學校 敎師
 〔私 金基河 (松原永珏)の3學年の時 擔任 先生〕
 1940年頃に結婚して日本に帰国。

 本籍地をもとにFORWARDさんが早速市役所に電話して調べてくれま
した。(5月30日)熊本市の説明によるとこの新屋敷と言う地名は1966
年に新屋敷1丁目から4丁目に変更になって、1966年時点では8番地と
言うのも122番地と言うのも別々にあり、八丁目122番地と言う地名は
無かった。それ以前の古い地名は記録が残っていないとのことでした。

 一方私も熊本市の新屋敷にある小学校は白川小学校一校であるこ
とを確かめ、池部教頭先生に卒業名簿等残っていないか調べて貰い
ました。結局空襲でこの一帯は焼失しており何も残っていないとのご
返事でした。ただ当時住んでいた方とか、PTA、自治会等を通じて調べ
て見ましょうとの誠意ある約束を戴きました。

 甲斐 幹 会長も熊本出身でいらっしゃるのでさっそく調べて戴いたら
しく、お電話を戴きました。なんと子供の頃新屋敷傘八番丁122番地の
すぐ近く(傘七番丁172番地)に住んでおられ、白川小学校の卒業生だ
ったのです。傘はカラカサと読むのだと教わり、吃驚するやら、不思議
なご縁に絶句しました。それに小学校時代のご友人が、たしかに市原
という方が住んでおられた記憶があると明言されたということでした。

 一番の問題は市原姓が旧姓なのか、ご結婚後の姓なのかということ
でした。この段階では多分旧姓だろうということで、取り敢えず池部先
生に市内電話帳から市原姓の電話番号をファックスしてもらい、
FORWARDさん、せっしんさんと3名で手分けして片っ端から電話しまし
たが、実りある情報は得られませんでした。

 同時に熊本に住む元勤務会社の先輩、後輩や、小学校から大学ま
での友人、知人、すべてを通じて調査・協力を依頼しました。結婚後日
本へ帰国ということですが、熊本へ引きあげられたとは限りません。郷
里の鹿児島にも調査の手を広げましたが、手がかりは掴めませんでし
た。

 6月5日「韓日シニアネット交流会」に参加し、金基河さんと直接会って
金さんの市原先生に対する思慕、尊敬、謝恩のお気持ちの強さに触
れ必ず探しますと約束した手前、帰国後も何か他に良い方法はないか
と思案しました。

 6月8日、FORWARDさんが、インターネット検索し、熊本日日新聞の
社会部宛に市原先生探しのお願いをしたとメールしてくれました。あと
でわかったことですが、取り上げてくれなかったようです。私も親戚、知
人を通じ、熊本日日新聞社の上層部のコネ探しをやりましたが、うまく
行きません。時間がどんどん過ぎていきます。

 六月下旬になると、金基河さんの6年の時の担任、前野茂実先生の
消息探しも始まりました。鹿児島の知覧町にお住まいということが分か
りましたので、FORWARDさんと私で調査してこちらは比較的簡単に分
かりましたが、残念ながらすでにお亡くなりになっていました。お子様達
が関東にお住みというところまで分かり、金基河さんの追悼文をご長
男にファックスでお送りしました。(6月30日) 終戦時の世情混沌の中、
日本に引き揚げる前野先生お家族を生徒さんたちが護衛して無事に
船着場まで送り届けたという美談を聞き、メロウ会員全員、痛く感動し
ました。

 7月3日、意を決して資料を用意して熊本日日新聞社を訪ねました。
紹介状もなく飛び入りで、受付け嬢に社会部記者との面会を求めたと
ころ、田口貴一郎氏が熱心かつ真剣に聞いてくれて、調査の上記事と
して載せてくれるとの約束を得ました。

 7月、8月はメロウ倶楽部・福岡の会員も増え、スキルアップ勉強会な
どで多忙を極めました。2ヶ月半経っても何にも連絡がないので、田口
記者に電話したところ社内連絡がうまく行っていなかったらしく、今度は
間違いなく夕刊に記事を載せるという確約を得ました。(9月18日)そし
て遂にその日が来ました。

 9月26日、熊本日日新聞の夕刊に市原先生を探しているとの記事が
掲載、配達されました。それを見て光州師範の後輩、椎葉玲子様とお
っしゃる方から、私に直接お電話があり、市原先生(結婚されて今は中
山寬子先生)に間違いないと思うと、先生の住所、電話番号を教えてく
ださいました。突然の連絡で舞い上がってしまいました。5時半過ぎだ
ったでしょうか、中山先生に電話を入れ、ご本人であることを確かめ、
一部始終をお話もうしあげました。大変に喜ばれました。

 また、市原(中山)先生発見の速報をさっそく金基河さんにメールでお
知らせすると同時に手紙を出しました。以下、転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金基河さん、こんにちは

喜んでください。市原寛子先生が見つかりました。
今日の熊本日日新聞の夕刊に金基河さんが市原先生を探していると
いう記事が掲載され、2,3時間の中に通報先の私に公州女子師範学
校卒業の後輩の方から連絡がありました。

先生は結婚で姓が中山に変っておられますが、さっそくお電話したとこ
ろ、非常に元気なお声で話され、大層喜ばれました。ご住所と電話番
号はE-mailで金基河さんに送っておきました。(メールが着かないとき
はお問い合わせください。何回か成功していますから問題ないとは思
いますが・・)

金基河さん、随分とお待たせしましたね。でも、良かったですね。おめ
でとうございます。先生は背中が曲がり、もう旅行は出来ないと仰って
いましたが、それ以外は何も支障は感じられないほどのお元気なお話
し振りでした。

                  いれぶん(伊東)

 6月30日に中山寬子先生にも下記の手紙をさしあげ、今までの先生
探しの経緯と金基河さんを紹介する資料をお送りしました。

中山寬子様

初めまして、先日お電話さし上げましたメロウ倶楽部(福岡)の伊東司
郞と申します。日本の高齢者団体、メロウ倶楽部と韓国の高齢者団
体、元老坊との交流が始まったのは、今年の六月からです。6月5日に
釜山で初めて公式の会談をいたしました。パソコンによるおしゃべり
(チャッティングと言います。)やホームページでのメール交換がスムー
スに行われるようになりました。

お互いメール(電子手紙)の交換所見たいな処で手紙をやり取りしてい
るうちに、今回の金基河さんが市原先生の消息を知りたいと申されま
したので、私どもがなんとかお探ししましょうとお約束しました。日本に
帰ってから熊本のご本籍の白川小学校や電話帳などで探しましが、ど
うしても手がかりが掴めません。遂に7月3日に熊本日日新聞社を訪問
し、「尋ね人」的な記事を掲載して貰えないかと社会部の田口貴一郎
記者にお願いした次第でした。

何時掲載ということは聞いておりませんでしたが、今月26日の夕刊に
出して頂いたらしく、夕方4時半頃だったでしょうか、椎葉玲子様から私
にお電話があり、今は中山さんですが、旧姓はたしか市原さんと思っ
たので、同窓会名簿を調べたら間違いないと思うと告げられたので
す。そうでしたか、とほんとに嬉しく、飛び上がって喜びました。先生に
お電話なさる前にまず私の方にお知らせがあり、確認されたのでした。

市原先生、金基河さまにさっそくメールでお知らせいたしました。直接
のメールは上手く届かなかったようですが、元老坊のホームページの
掲示板というところで、先生がお元気に熊本市にお住まいのことをお
伝えすることができました。大変喜んでおられます。住所、電話番号も
お知らせしましたので1週間以内にお手紙が先生のもとに寄せられる
ものと思います。

金基河さんはお会いした時はもとより、メールでも度々、先生のことを
お慕いしている、ほんとに優しくて、分け隔てなく、熱心に教えて戴いた
と、何べんも、何べんも繰り返し書いておられました。つまり、とっても
生徒を可愛がって戴いた、と。

最近の私の報告と金基河さんのメールを同封致します。また金基河さ
んのお写真や経歴も一緒に入れておきます。写真は私どもが釜山に
行って会議終了後に懇親会の場で撮ったものです。

市原先生、韓国の当時の生徒さんから絶対の信頼を寄せられ、金基
河さんのように60数年間も先生の安否を気遣っておられた生徒さんが
居られたという事、(また先生のことを聖職にある方のようだったという
表現をなさっていました)ほんとに私も頭が下がる思いを致しました。
私も日本人として先生を誇りに思います。有難うございました。先生が
お許しくださるなら、近い中にぜひお訪ね申し上げたいと存じます。

これまでの手紙のやり取りや、金基河さんの「詩」などもお目にかけた
いと思っています。先生にぜひ見ていただきたいと言われていましたか
ら。

椎葉さまにもくれぐれもお礼を申し上げてくださいと、金基河さんから頼
まれています。機会がございましたら先生からもよろしくお伝えください
ますようお願い申し上げます。

      平成13年9月30日
                      いれぶん(伊東)


            (※この記事作成日 2002年2月23日)

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2004.05.09

英彦山遭難記 (5)

 ヘリコプターはまだ飛んでいる。しかしここでも視界は狭い。少し上の道に上がって合図しようと待ち構えたが、なかなか思うところに来てくれない。救助隊が出動しているのだから、一刻も早く無事を知らせたい。ここで待つべきであろうか。しかし山を踏み分けての捜索隊の呼び声はぜんぜん聞こえなかった。今日は別の方面を探しているのかもしれない。私はとにかく玉屋神社の方へまわり、神社下の茶店へ行こうと思った。つまり登りコースと同じ道をとって帰ることにしたのである。途中でも見晴らしのいい場所は余りなかったが、ヘリが来そうな時には、待ち構えていて何回かヤッケを手にして振ったが、うまくいかなかった。そのうちヘリの音もしなくなった。
 玉屋神社への階段を登り始めたときであった。六、七名の登山者グループが前方右下の道を登って来るのに気がついた。ピンときたので階段の途中で立ち止まり近づくのを待った。制服らしい服装をした人や、携帯無線をもった人がいる。間違いなく救助隊の人達である。私の方から声をかけた。
 「救助隊の方ですか?私はいとうです。大変ご迷惑をかけました」
先頭に立っていた制服の人が興奮して叫んだ。
 「いとうさんですか?」
 「はい。いとうです」
 「いとうさんですか」と、たたみこむように問いかけてくる。
 「ご迷惑をかけてすみません。いとうです」
  「もう一度確認します。福岡市からこられたいとうさんですか?」
 その人は私の肯定にやっと冷静さを取り戻し、自分の名を名乗った。それから、「怪我はありませんか?」と私の容体を尋ねた。私が比較的に元気なのを確かめると、私に写真をとらせてくれと断って、二、三回カメラのシャッターを切った。そして無線で私の発見を伝え、いろいろ打ち合わせをしていたが、私に「さあ、私の背中におんぶしてください。車がとめてあるところまで下りましょう」と云った。私はあわてて、その必要はないこと、ちゃんと歩けることを告げた。それでも二人が私の腕を肩に組んでくれた。まるで重病人扱いであった。それでも有り難かった。少し下りたところに救急車が来るから、そこまで歩こうということになったのである。
 広いところに来た。車が登れる最終地点であった。車を待っている間にさっそく救助隊本部への詳しい報告が始まった。それが終わると英彦山の国民宿舎に設けられた本部まで来ていた妻が呼び出された。私は差し出された無線機のマイクをとって云った。「心配かけたな。元気だから安心して・・・・」と。そして、救急車に乗り込み添田町立病院へ直行した。病院では手際よく私を迎え入れ、さっそく診察を受けることになった。しかし、既に私の救出を知った報道関係記者が私の到着を待ち構えていた。六、七人押しかけていた。院長はさっそく取材にかかった記者達を室外に出すと、私の診察を始めた。割合に元気なことを確認し、膝と手の擦り傷を手当するよう看護婦に命じて、わずか十分足らずで診察は終わった。ただ、警察の人の事情聴取があるから、それが終わったら帰ってもいいですよと告げた。
 それから、取材記者がわーっと押しかけて来た。一斉に質問を始めるので、答えるのにとまどったが、成るべく順序だてて話した。それでも、記者たちは思い思いに質問をぶっつけて来るので、話の腰を折られたことが数回あった。ただ一人だけ遭難のそもそもの始まりとなった道標に関する場所と表記について何回も確認した記者がいたが、その人はわたしの話のポイントをちゃんと押さえていて、今後のこともあるから詳しい話を聞かせてくれと云う。私も単なる興味本位ではないことが分かったので、丁寧に説明した。会社の人達にはろくろく挨拶もできず、詳しい話もできなかった。それから私の安否を心配して現場に急行してくれていた知人 I さんの車で、添田町の警察署へ挨拶に立ち寄ってからはるばる家まで送ってもらい、三日間の英彦山遭難事故は終った。(完)

(後記)英彦山遭難時期:昭和61年11月9日(日)~11日(火)
 英彦山登山は過去六回、表参道および裏コースとも経験がありました。道ははっきりしていて迷うところはありません。しかし迷いこんでしまいました。道標の表示および設置場所の問題は、事故直後町役場の人が調査してくれたと云いますが、問題はなかったととのことでした。私自身はまだ自分で確認しておりません。問題なかったとすれば、道標のところから少しすすんでから正道をはずれたとしか考えられません。
 道を捜している間の人の声、屋根、夜半の鳥、霧氷および救助隊の人の指示は一時的なものとは云え、私としては事実として見かつ聞いたものです。しかし結果的にはすべて錯覚と判断せざるを得ません。ただし鳥、霧氷については錯覚の原因が解明されたと思っています。
 それにしても、英彦山はいっぺん迷いこむと大変難しいところらしく消防団の関係の人の話によりますと過去十二回の事故のうち生存者は二名、怪我なしで比較的元気で救出されたのは私一人だと聞きました。非常に幸運だったと思っています。もちろん救助隊の人達の活動とヘリコプターからの呼びかけが自力脱出のヒントとなり、きっかけとなったこと、そして精神的に大きな支援となったことは間違いありません。
 山本町長および町役場の人々、福岡県警察、現地警察および消防団、営林署それに会社の上司、役員並びに○○室ほか各部の皆さんの身にあまる適切なご配慮とご尽力、登山部の人達の捜索活動に対し、また家族をはじめ親戚、知人その他私のために心配し、激励をしてくださった人達に、あらためて心からお礼を申し上げたいと思います。
 三カ月以上経過した今日、記憶がはっきりしないところもあり、話が前後した所もあるかと思いますが、遭難中の私の行動や考え、判断といったものについては、つとめて忠実に書いたつもりです。夜の山中の印象についても感じたままを書きました。 (S.62/2/22 Irebun記)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後に事故を報じた新聞記事を紹介します。

1)毎日新聞(11/12/1,986付)朝刊記事から

  装備、沈着さが命綱
    英彦山から生還のいとうさん

 国定公園・英彦山(標高1,200メートル)で道に迷い、二夜を過ごし十一日午前、生還した福岡市の会社員、いとうさん(54)の沈着な行動が評価されている。しかし雨が降らなかったなどの幸運もあり、改めて秋から冬にかけての山登りの難しさを浮き彫りにした。
 いとうさんが迷ったのは、南側からのメーンルートの鬼杉近く。他の季節ならルートははっきりするが、原始林のこのルートには、落葉樹の落ち葉が一面におおい、わかりにくくなっている。これが遭難の第一の理由。次に一夜を明かした十日に自力で道を探したと言うが、「尾根筋に道があるはず」と上へ向かっており、結果的に登山道からかなりはずれてしまったようだ。
 英彦山は北側は道路も整備されているが、南側は自然のままで、尾根筋に道はない。むしろ下がった方が林道に出る。
 山は二日間とも氷点下に近い気温になった。この寒さに耐えたのは『比較的温かいヤブの中にいた』という判断と、水を沢まで降りて水筒につめたり、アメ玉十個、ミカン二個、缶ジュース一本を細々と食いつないだ沈着な行動、さらに革製登山靴や夜霧を通さない最新式の雨具のおかげ・・・と山岳関係者はみている。

2)西日本新聞(11/12/1,986付)朝刊記事から

  道標を確認後に迷う
   英彦山で一時不明の会社員無事
     「迷惑を掛け申し訳ない」

 英彦山(標高1,200メートル)に紅葉の写真を撮りに行き、道に迷ってから二日たった十一日、捜索隊に保護された福岡市の会社員いとうさん(54)は腕と足にかすり傷を負っただけで、田川郡添田町立病院で簡単な手当てを受け、昼過ぎには家族と共に自宅に帰った。いとうさんは「たくさんの人たちに迷惑を掛け申し訳ありません」と謝った。案じ続けていた妻の○○子さん(51)は「もう山には登らせません」。十日からの捜索には、町役場、消防、営林署、警察から延べ三百人近くが参加した。
 いとうさんの話では、九日、南岳を経て中岳の上宮に行き、日帰りで下山する予定だった。英彦山神宮下でバスを降り、登り始めた。「南岳を経て上宮に至る」とある道標に従って進むと、川が干し上がったような、石のごろごろした場所に出た。このコースは今まで三回ほど登ったことがあるが、初めて通る道だった。間違えたと思い、いったん引き返した。
 道標を確認して、同じ道を再び登り始めた。やはり前に通った道ではなかった。もう一度引き返そうとしたら道に迷った、という。持っていった昼食は食べてしまっていた。日が暮れると木の下で休んだ。ミカン二個、ジュース一缶、キャラメル十個で食いつないだ。
 十日の午後三時ごろ、一つ向こうの山で呼び声がした。大声で返事したが、届かないようだった。動き回るのをやめて朝を待った。二晩ともあまり眠れなかった。
 十一日は、呼び声のした方へ向かって歩いた。途中でヘリコプターの音がした。見晴らしのいいところへ出ようとしていると、鬼杉のところに出た。山道を降り始めたら、登って来た捜索隊の第5班10人と出合った、という。
 「私にはなんでもないコースのはずだった。いま思うと、道標のところで間違えたように思う」といとうさん。町役場では「道標を確認してみたが、的確にコースを指し示していた。間違うはずはないのだが、・・・」と話している。 英彦山遭難記(完)

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2004.05.08

英彦山遭難記 (4)

 今夜は、雲は多いが天気はよい。たまには星もまたたき、月もときどき顔を出す。寒さもそれ程でもない。昨夜は下半身が濡れていたが昼までには完全に乾いていた。今日は動きまわったわりには汗もかかなかった。従って冷え込みに対する不安はなかった。モンベルの雨着上下の保温力は抜群で、昨夜でその信頼性は実証済みだ。今日はすぐ近くまで救助隊が来てくれたが、発見してもらえなかった。しかし救助隊が動いてくれたのは厳然たる事実だ。精神的に大きな支えとなって、希望を明日につないでくれた。気分的に大変らくだ。横になってもいいなと考えた。海水浴で使うビニールシーツを持っていたので今夜も使った。なんでもちょっとしたものが、いざという時に役に立つ。ただマッチ、ライターを持って来なかったのは失敗だった。日帰りで慣れたコースでは必要ないと、登山必携の小物袋など八日の夜にリュックに入れるのを止めてしまったのが悔やまれる。あの時に煙をだせたら、一番いい合図になったろうに。
 夜半まで立て膝をくみ、木に寄りかかっていた。何もすることがないので、昨夜と同じように目をつむっていた。昨夜と違い今夜は安心したせいか、うとうとする回数が多くなった。眠りは昨夜よりも深くなっていたろう。風の音は昨夜ほどはなかったが、やはり上空を渡るときごうごうと響いた。夜早いうちは、下界のさまざまの音が弱く、和らいで聞こえてきた。すこし経つと風も少しは感じるが、静寂と云う表現が適切の状態になった。
 夜中を過ぎていたと思うが、少し冷気を覚えて目をあけた。目の前が一面の冬景色である。あれ!いつの間に降ったんだろう。雪の銀世界が出現している。前の樹には霧氷がどの枝にもついていて白く光っている。この冬一月、雪の英彦山に上ったとき見たあの鎖場より上のほうの樹氷や霧氷とまったく同じである。透明と云ったほうがいい輝きである。しかしよくよく見ると身近な所には降っていない。そう寒くもない。しばらく目をつむり、また目をあけて見た。さっきと同じである。少し離れたところや眼前の樹木、それにその先のほうが白くキラキラ光っている。おかしい。でも奇麗だ。こんな美しい雪景色を見たのは初めてである。しかも夜、山の上で。しばらくその景観に見入っていた。
 また目をつむり、数分後に再びすばらしい景色を見ようとして目を開けた。だがこんどは全体が暗い。さきほどの明るさはどこに行ったのか?そのうちに目の前の樹木の一部がパッと明るくなりさっきの様相を呈した。よーく視るとその先のほうに月が雲間から顔をのぞかせている。雲が横に流れると、明るさが増し霧氷の輝度がさらに高まり、全体がますます透明に輝くのであった。なるほどこれだったのか。原因が分かった。
 夜の世界は暗黒が基調であり、わずかの光が現れると物に陰影が生まれ、さまざまの形と彩りを人間の目は感じとるのである。光の明るさが大きくなるにつれて、バックの色の基調は黒より白、白より無色透明へと変わる。物の陰影はバックの色の強弱に対応して同調し、透過光や反射光によって黒い部分と白い部分の濃淡や広さが変わるのである。木の葉の場合、風があるとその重なり具合に変化が生じ陰影が動くのである。昨夜の謎が解けた。まさに光と影の魔術であり、光陰の芸術であった。夜の世界は昼の世界と異なり、全宇宙がわずかの明るさに反応しており、月や星はまさに、雲を友に、昼間の太陽に匹敵する働きをしていたのである。そこで、ビニールシーツ越しに、ごつごつした地肌を感じながら横たわり、眠りについたのであった。明日に希望をつないで。
 翌日も五時半には起き出した。飴玉を一個だけ口に放りこんで、さっそく声の聞こえた方へ歩きだした。雑木林をぬって行く。やがて崖に出た。真下に降りるには危険があるとみたので、右に迂回して降りやすいところを探す。昨日、救助隊の人達はこの崖下の先の樹林辺りまで来ていたのかも知れないなどと、想像しながら急な坂を下りはじめた。下りは非常に神経を使う。つかまえやすい木や草の根っこを先に探しておいて、その下の足場となるところもざっと目で調べておいてからでないと、うかつに下りられない。慎重に慎重に下りるのでだいぶ時間がかかった。やはり疲れが出ているのか、足が重い。座りやすいところを選んでしばらく休憩することにした。キャンデー一個を食べて、水を飲む。前途遼遠だなと感じ、しばらく仰向けに寝て背中と腰を伸ばした。
 三十分位休んでまた歩き始めた。樹林の中をしばらく進んで行くとヘリコプターの音が聞こえて来た。何か叫んでいるようだ。こんなに早くなんだろうと考えたが、耳をすましていると、「ふくおかし」「とざん」「いとうさん」という言葉が断片的に聞きとれるようだ。やった!今日はヘリコプターで探しに来てくれたのだ、と直感する。ありがとう。胸は感激で一杯だ。
 「ふくおかしから ひこさんに とざんにこられた いとーさん」
 「けさから きゅうじょたいの みなさんも あなたを さがしていまーす」
 「いとーさん おられましたら うわぎか ハンカチで あいづして くださーい」
 「ふくおかしから とざんに こられた いとーさん おられましたら うわぎをふってあいづしてくださーい」
と、繰り返し、繰り返し上空から拡声器で私に呼びかけている。今いるところからは声は聞こえるが、ヘリコプターはよく見えない。樹林がこくて上の空がよく見えないのだ。なんとかして視界がひらけている場所に出なければいけない。今の場所に来る前に右手に小高くなっているところがあった。そこへ先ず上ろうと思った。疲労を覚え出していた足も、なんとか合図を送らなければ申し訳ない、私の所在を知らせなければならないという使命感で元気を取り戻した。一気に駆け上がって行った。
 しかし残念ながらわずかに空間が開けているだけで、しかもヘリコプターはそこに来てくれない。ここでは駄目だ。別の高いところを目指す。小走りに走りまた上に登る。しかしそこも樹葉が空を被いまったく視界を妨げている。ヘリコプターからの呼びかけは相変わらず続いているが、応えるすべがない。気が焦る。もういっぺん引き返しさらに他の高みを探す。狙いをつけて上がって行く。ヘリの来る前だったら、敬遠したであろうところも無理してよじ登った。やっと高い処へ出たと思ったら、その下が文字通り、十二、三メートルはある絶壁となっている。視界はわずかにあるが足場が悪く、危険で長くとどまっておられない。諦めて撤退する。なんべんも経験したように、無理して上がったあとは下りが大変だ。いっぺんだけ、約四メートル位だがずり落ちてしまった。右膝をしたたか打った。ヘリは私のいた上空あたりから南の方を主として旋回しているようだ。
 もうかれこれ一時間にもなろうか。よし、と自分を自分で励ましてまた高いところを探して挑戦する。坂上がりになった場所を上がっていった。すると、パーッと、下がひらけて、上から見下ろすような場所に出た。よく見ると道がある。さらに右下には、何とあの鬼杉の下の部分の大幹が、堂々と立っているのが見えるではないか!こんなところに居たのか!左下には道標が立っているのが見える。間違いなく鬼杉のところだ。やった!道に出た。 一気に下まで駆けおりて、鬼杉にむかって最敬礼し、柏手を打って神のご加護に感謝した。午前九時二十分頃だったと思う。

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2004.05.07

英彦山遭難記 (3)

 三十分位歩いただろうか。右手になだらかに上がる坂の向こうに、樹林に覆われた丘があった。目標が定まる。上がり切ると右側が峪となり、それは左へ迂回している。ここでふと、長期戦に備えるためには、食料が乏しい以上水を補給しておかねばなるまいと思った。
 今までは上へ上へと目指して歩いてきたが初めて下りのコースへ切り替えたのである。下りは楽だ。人間は上下二つの道があると、疲れたとき必ず下りの方を選ぶそうだが、私の場合は水補給という目標があった。もう昼頃だったが、昼食は水にありついてからにしよう、我慢だ。ずんずんおりていった。川床のあとのようなところに出たので、それに沿って探したが、水はなかった。この山は水が少ない。表参道の方はいくつか水場があるが、裏道の方はそれは見当たらないから、谷底にもないのかもしれぬ。とにかく一番下まで降りることにした。やっと見つけたのは一すじの水がチョロチョロと流れ込んでいる、少し大きめのお盆ぐらいの水だまりだった。木の葉が一面に浮いていた。それを取りのぞいて弁当のうすい蓋ですくって水筒に入れた。その上で自分で飲んだ。うまくはなかった。だが一応安心した。水さえあれば一週間位は生き延びられる。
 先程からふっと不安がくびをもたげてきて、明日までもし道を探し当てない場合、道に迷った経緯と遺書を書いておきなさい、と第三の自分がささやく声を聞いた。それもそうだなと自答しつつ、一方、いやまだやれる。やるぞ。・・・・そこでキャンデーを一個だけ食べた。
 ふたたび上に登ろうと思った。道がありそうな小高い丘が見えるところまで、いま来たところを引き返すような形で上がっていった。岩が多くて比較的に樹木が少ない、わりと広い範囲で坂になっている処にさしかかった時であった。何か人の声がする。気のせいか私の名前を呼んでいるような人の声だ。聞き耳をたてる。それも一人だけではなく、何人かの呼び声らしい。だんだん声がはっきりしてきた。
 「いとーさん」
 「ふくおかしから とざんにこられた いとーさん」
 「こちらは きゅうーじょたいでーす」
 「いとーさん、おられたら、へんじしてくださーい」
 「いとーさん」
 間違いない。今度は紛れもなく救助隊だ。私のために来てくれた。助かった。内心、よかった! もう死ぬことはないぞ、と思った。声のする方向へ向かって、私も
 「おーい」 「おーい」 と、大声で返事した。
 相手の姿は樹林の陰で全然見えない。相手も私を気づかないだろうと思われた。私は坂の上に駆けあがった。あそこならここより高いし視界が開けているから、ひょっとしたら救助隊の人が見えるかもしれない。右手前に白っぽい山肌をした小山があった。その奥、中央より左手にかけて大きな山があり、稜線もくっきりと空にうきだしている。声の方角としてはその方面から来ているようであった。声が聞こえ始めたのは、午後三時頃であった。坂をあがってからも、
 「はーい」「いとーは ここでーす」
 「おーい こっちでーす」「おーい」「おーい」と、繰り返し、繰り返し叫んだ。
 大分声がちかくに聞こえてきた。救助隊の人の姿はどこにも見えないが、声ははっきり聞こえる。私も今度は自分の声が相手にとどくと思い、
 「いとーは ここに いまーす」
 「いとーは ここでーす たすけてくださーい」と必死に叫んだ。すると、
 「分かりました。すぐそちらに行きますから、待っててくださーい」
 「待っていてください。そこを動かないでくださーい」と返事が返ってきた。
 私は一刻もはやく、一歩でもちかく救助隊に近づきたいと坂を駆けおりて、走るように河床あとの、ところどころ大きな岩石の横たわる、荒れてはいるが樹林のすくないところに出た。正確に云うと、干上がった渓流跡の脇の土手にあたるところに出たのである。向こうの土手にあたるところを越えて行くと、その先は小山になっていてさらに奥は尻上がりに高くなって、そのむこうの山に連なっているように見える。さきほど、じーとして動かないようにと云われたことを思い出し、あまり動きまわらない方がよい、相手は私の声の方に向かって来るのだから、位置を変えては具合が悪いだろうと思い、先へ進むのは止めた。
 「いとーさん」という呼びかけは、間歇的ではあるが確実に私の方に近づいていて、大きくなってくる。それも数カ所から近づいてくるようである。間違いなく私の居場所を確かめるための呼びかけである。私も「おーい」「いとーはここでーす」「こっちでーす」と、また相手の呼びかけにタイミングを合わせて、「はーい」「こっちでーす」と答えるようにしたが、多数の人が一緒に叫ぶのでなかなか間が取りにくかった。しばらく声が途絶えた。あの先の山から私のところまでは、少なくとも四、五十分はかかるだろう。いや、道のないところを降りてくるのだからいくら山のベテランでも一時間位はかかるかも知れない。ましてや難所があったら尚更だ。その間は呼び声がだせないだろう、と推測してしばらくの中断はもっともだと思った。
 時間は四時を過ぎていた。やがて目前の小山のやぶを越えたあたりから、「いとうさーん」と呼ぶ声がいくつも聞こえた。もうかなり近い。あゝ待っていた甲斐があった。「こっちでーす」「ここでーす」「おーい」と叫ぶ。今から思うとこの時、「たすけてー!」と叫んだ方がよかったのかも知れない。数分間、かなり近くを左手から右手の方へ私を呼ぶ声が動いた。右手のほう奥を、二人の人が話しながら歩いて行ったような気配がした。救助隊の人達は私を必死に探してくれているが、さっきの私への指示にもとづいての行動ではなく、まだ私の所在を確認しない初期捜索の段階であるらしい。すると救助隊は偶然に私の近くに来ているに過ぎない。私の声は最初から届いていなかったのだ。
 私は愕然とした。五時頃には呼び声は次第に遠ざかり、やがて完全に消えた。薄暗くなると危ないので今日は、打ち切りにしたのだと思った。やはり私の声はとどいていなかったのだ。しかし、それにしても救助隊の人の、あの私の確認と私への指示はなんだったのか?たしかに、とぎれとぎれではあったが、全体としてはあのように聞いた。あの時は別に疑問を差し挟む余地はなく、私としてはごく自然の、日常の言葉として受け取ったのだが?
 日が暮れてきた。近くに今夜のねぐらを探した。さいわい大きな木があったので、その根もとに決めた。少し坂になっていて座ったときの安定はよくなかったが、寄りかかることができた。
 キャンデー・飴玉の残りは七個あった。救助隊はかならず明日また来てくれるとは思うが、来ないかも知れぬ。声の聞こえた方向と、遠ざかって行った方向とは一致している。救助隊が引き揚げて行った方向へ行けば、必ず通い慣れた登山道に出るはずだ。それでも相当の時間がかかるかもしれぬ。そんなことを考えて夕食は二個だけにして、あとの五個は明日のために残した。胃袋が収縮したせいか、わずか二個でも空腹感は消えた。昼間と同じく喉から胃の腑へ栄養分が伝っており、胃壁から直接身体のすみずみへ滲みこんで行くのを覚える。エネルギーが湧き上がってくるのを感ずる。まだ飢餓状態の前の段階だから、消化・吸収の機能は正常に働いている。諸々の神経も、特にこの方面は大丈夫だと自らを安心させ、有り難いと神に感謝した。

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2004.05.06

英彦山遭難記 (2)

 五時頃には薄暗くなってきた。暗くなっては動くのは危険だ。懐中電灯も今回はもってきていない。たとえ持っていても、昼間の経験から何の足しにもなるまい。夜の気温低下に備え、まず持ってきた唯一の半袖シャツを着替えた。汗でびっしょり濡れていたから。
 他に肌着の着替えはなかった。午前中の小雨と汗でズボンとステテコ、それに靴下まで濡れていた。シャツも薄手のヤッケも同じように濡れていた。それはそのままにして、全天候型のやや厚めのヤッケ上下をその上に着込んだ。これは最新の繊維で出来ており、雨水を通さず、内部の汗などの水分は外へ出すという代物で、プロも使っているということで買い求めていたものである。
 薮の横の樹の下に一夜の宿を定めた。風当たりの弱いところを選んだ。幸いに風は強くなかった。雨も午後には止んでいた。五時半にはとっぷりと日が暮れた。上方にはそれでも風が渡る音がした。汽車が走って行くような音と響きが伝わってきた。空はどんよりと暗く、最初は暗黒の世界であった。膝を抱き抱えるように、木に倚りかかり目をつむっていた。 何故だ!? 何処で間違えたのか? そもそもあの道標がおかしかったのか? 二度も確認したのだか。 道標とその指し示す方向と私が辿った道に間違いはなかったと思うのだが。際限もなく同じ疑問を繰り返した。私は大南神社を過ぎてしばらく進み、上り坂になっところで下からあの道標を見たのを思い出した。ひょっとしたら少し早めに右の方へ折れたのかも知れぬ。道標の近くまでバックして来て元の道に出られず、諦めて自力で登山道に出ようと決め、その方角を定めたとき無意識にそう確信していたようだ。
 家に連絡の仕様がないのが、なんとしてももどかしい。だがその時、明日夜明けと共に行動を起こし今の場所から上方へ登って行けば、必ず正しい登山道へ出ると信じていた。日が暮れて登るのを止めたとき見上げた山の様相は、それを越えれば中岳へ通じている道があると思えたのである。七時までには中岳上宮に至り、神社下の茶店に遅くとも九時までには下りられる。そこで家に電話できるし、家から会社へ連絡してもらえると自分に言い聞かせた。こう考えてやっと落ち着いた。夜半過ぎには家では随分と心配することだろう。連絡が出来ないのだからやむを得ない。許せ。明朝は必ず電話するからな。声に出さずに独り言を呟いた。
 下半身が冷えてきた。昼間の汗で靴下やズボンが濡れているせいで、とりあえず手で脛をさする。シャツ一枚でも取り替えた甲斐あって上半身は暖を感じた。空腹はさほど感じなかった。弁当を鬼杉で食べ、道に迷ってからみかん一個とキャンデー二個を食べた。暗くなって野宿を、いや山宿を決めたとき、夕食としてオレンジ・ジュース一缶とチョコレートキャンデー二個、飴玉一個を食べた。残りの食料は飴玉とキャンデー合わせて十個、ミカン一個それにジュース一缶だけだ。食べ物は命の綱、これ位は明日の分として残しておこうと思った。水は家から詰めてきた水筒に半分ぐらい残っていた。
 山で遭難したときは特に冬季は、夜眠ってはいけないと言われている。まだ真冬ではないし、雪もなく、雨も降っていない。眠ってもよいだろうとは思ったが、下半身の冷えもあるし、なるべく眠るまいと決めた。ただ現実にはいろいろと考えるともなく考えることが、つぎつぎと出てきて眠れるものではない。それに、秋の夜長。山の夜はなにもすることがない。仕方なしに、目だけは日が暮れてからつむっている。時々目を開けてまわりを見廻す。暗さに慣れると漠然とながらものが見えてくる。二、三時間経った頃だったろうか。四、五メートル先の木の枝に烏より大きい鳥が三羽とまっている。羽の繕いをしたり互いにくちばしを交わしたり、二、三歩横に位置を変えたり、羽をふくらませたりしている。私の居ることを全然、意に介していないようだ。気づいていないかのように静かに動いている。はて、暗くなるときには鳥など一羽もいなかったし、そのあと飛んできた気配もない。安心して夜の憩いを楽しんでいるように見える。なんとなく暖かい雰囲気が伝わってくる。
 『ここは、私たちの楽園なのよ。今夜は一緒に静かな夜を過ごしましょう。』
 『何も怖いことはないよ。この山は、樹木と草と鳥たちが岩や石となかよく暮らしているんだよ。』と言っているようだ。
 風は上空をごうごうと音を立てて吹いていた。だが私のまわりは全く風はなかった。下界の音がときどき聞こえてきた。カラオケバーから漏れてくる歌謡曲や演歌のようにも思える。汽車の音も過ぎ去って行った。下界の夜の世界は、この山にも働きかけているのだ。しかし、それは静かな柔らかな音になっているようだ。余り気にならなかった。鳥たちも全然気にしてはいない。私はただ鳥の小刻みな動きに心を奪われていた・・・・。なにか共感を覚えながら、うとうとしてしばらく眠ったようだ。いるはずはない。「幻か? 不思議だ! 何故だ!」と考えながら。
 この時節でも山の夜明けは早い。五時半頃には薄明かりとなったので、さっそく行動に移るべく起き出した。というより立ち上がり、場所をかえて幾らか座り心地の良い、別の場所に移り、残り物できわめて簡単な食事をした。ジュースと飴玉など二個で朝食は終わりだ。昨夕から確信していたところを実行したかったのでさっそく登り始めた。左手の熊笹の薮は避けて、その右手の普通の薮を抜けようと決めた。それでも小枝が強靭で繁く抜けるのに苦労した。前進後退ジグザグに、少しでも容易な処を探して登って行かざるを得なかった。登っても登っても行く手には坂が続く。出発地点から見た限りではこの部分の山の頂はすぐ上にあるように見えた。それを降りたところに道があると思い込んでいたのだが・・・・。またまた難所が現れた。昨日、嫌という程いじめられた、あの熊笹がまたも前途一面に立ち塞がったのである。右に向かっても、左に伝っても熊笹の群れは尽きることがなかった。退却することにした。熊笹軍に完全に打ち負かされた敗残兵となった。
 この時のショックはかなりひどいものだった。行けば深みにはまり、行き倒れになりかねない。希望を失い、ただ脱出に残りの力を振り絞った。このときも勿論今朝の出発地点には出なかった。また完全に別の場所である。方向はもちろん見当もつかない。
 昨日までは自分勝手に正しいと感じた方向に一応向かって歩いたが、もうそんなことは出来ない。勘に頼るしか方法がない。とにかく、少し下がって全体を見直そうと思った。挫けそうになる心を奮い立たせてミカンを食べた。飴玉一個を口に含むと糖分がおなかの胃に滲みこみ、わーと力が沸いてくるのを覚えた。足や手に、力が充満していくのが分かる。有り難い。食べ物の効用はこんなにすばらしいものだったのか。人は食べて生きている。いつもは忘れてしまっているこの当り前のことの意味を、身をもって悟ったのであった。残りを大事にしようと思った。
 しばらく下り坂を降りると、別の小山の稜線が見えてきた。そちらを目指して歩いて行った。もとより山道はないので荒れ地を無理して踏み越え、乗り越え、進むことになる。ふと、上の方で風の音の合間に人の話し声が聞こえた。二人で話しながら歩いているようだ。しめた!人がいる。おーい、誰かいますか?道に迷いました。助けてくださーい。思わず大声で叫んでいた。「おおーい、助けて!」・・・しかし、何の反応もなかった。ただの風の音に過ぎなかった。人の話し声に聞こえたのだが、空耳だった。
 目指す稜線の近くに来た。約百五十メートル位だろうか? 山の上にこげ茶色の屋根が見える。よく見かける四阿風の山小屋の屋根に見えた。 やった! あそこなら道がある。 やっと見つけたぞ! 私は小躍りして喜んだ。しかし英彦山のまわりにあんな四阿があっただろうか? 半信半疑、近づいて行く。茶褐色の色は間違いなく屋根だ。あいにくその下は急な崖になっているように見えた。やむなく右手前の方の比較的登りやすい崖を登ることにした。しかしやって見ると、こっちの方も結構むづかしかった。木の根や草にすがり、足場を確かめてから登らないとずり落ちてしまう。すぐ上に道が通っており、それが先の四阿の方へと通じているように見えた。やっと上のほうへ出たと思ったのも束の間、それはちょっと段差がついているだけで、そこには道はなかった。同じように坂が続き、わりと高い木が密生しているではないか。またここを降りなければならなくなった。
 崖下を崖に沿ってとにかく四阿の方へ歩いていった。ところが近づいてみて驚いた。それは屋根でも四阿でもなかった。大きな一枝の紅葉が枯れて茶褐色に変色したものに過ぎなかった。遠目にそれらしく見えただけのこと。人声といい、四阿といい、すっかり騙された感じをいなめなかった。自分の五感はもう狂っているのか?とも思ったがやはりこういう時は錯覚を起こしやすいのだ、と強引に否定した。この上には道はない。またも方向転換である。引き返して右手の方に登って行こうと決めた。しばらくは下りで、楽であった。疲れを癒すという意味でも、ゆっくり歩いた。心身の立て直しを図るためにも急いではいけない。長期戦だ。と心に決めた。

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2004.05.04

英彦山遭難記 (1)

    英彦山に迷う               by Irebun Feb. 1987

 それは貴重な体験であった。わずか三日間にわたるごく短い時間ではあったが、その経験は私にとっては人生の後半における十年に匹敵するとも言えるし、また死の直前の寸秒の走馬灯の夢に喩えることも出来るかも知れない。
 私は朝五時半に起きた。朝には強い。夜型ではあるが最近は朝方早く目が覚めるようになっている。昨夜詰めてもらった弁当を一番最後にリュックに押し込み、カメラを手に自転車に乗って地下鉄の駅に向かった。
 天神バスセンターにて、西鉄バス『後藤寺』行き急行に乗り込み、終点で乗り換えて英彦山へ、紅葉を撮りながら気軽に日帰りの英彦山登山を楽しむつもりであった。神宮下バス停で下車する人は、たいてい下宮になっている英彦山神社奉幣殿に参拝する人々であり、山頂にある上宮まで行く人は少ない。信仰心が強く、足が強く、また山登りの好きな人が山頂まで登るのである。
 奉弊殿に至る階段横の茶店に愛想のいい小母さんがいる。下宮まできつい長い階段を登る人に、杖を無償で貸し出しており、いつも大きな高い声で優しく呼びかけている。マイカーで来る人がいっせいに集まってくるので、ここの混雑は銀座並みだ。弁当の箸を入れてくるのを忘れたことに気がついていたので、ほかの年配の小母さんから買い求める。商売熱心の小母さんはあまりに忙しそうにしているので、声をかけるのがためらわれた。
 黙って階段を登り始めた。小雨が降っている。ところどころに木の葉が紅葉し、しっとりとした空気の中で彩りを添えている。階段を喘ぎながら子供を交えた老若、善男善女の群れが下宮へ向かってただ憑かれたように上へ上へと登って行く。私も機械的に足を運んだ。
 最近、英彦山に登ったのはこの冬一月だったろうか?登山の無事と家内安全をお祈りして、さあ、登ろうと思う。どのルートにするかはたいてい前日のうちに決めておくが、その場に臨んで変えることもある。その日は紅葉を撮りたいという気分が強かったので、裏道から行く決心はゆるがなかった。
 しばらく進んで行くと、銀杏の落ち葉が黄色に敷きつめられて、ひときわ明るい小徑にさしかかった。この徑は私の好きな徑だ。秋から冬にかけて登るとき、ここを通るときは必ず足をとめる。また同じところを撮るのかと自問し、苦笑しながらシャッターを切る。なんべんも通うと自分の好みが定着して行くのがわかる。前には誰もいない。やはりこのコースを取る人は非常にすくない。もっとも奉幣殿を後にしたのが十一時半頃だから、スタートが遅いせいもある。玉屋神社についた。居た。若い男が一人、丸太を半切りにしたようなベンチに腰掛けて昼飯を食べていた。黙って軽い挨拶を送り千年も涸れたことがないという、巨岩下の「湧き清水」の精霊に敬意を表して柏手をうつ。
 食事は鬼杉についてからにしようと決め、階段下をのぞこうと向きを変えると、ぱっと黄、白紅色の世界が視野に広がった。あった! 私の求めて居た秋の紅葉の世界が。さらに右に視線を移すとそこにも僅かだがあった。本日の英彦山紅葉第一弾だ。これまでのは余りにお粗末であった。しばらり絶景をたのしみ、写真を二、三枚撮り、心のカメラにも焼き付ける。
 崖にかかる紅葉、黄色に彩色された蔦の葉の被う断崖に心を躍らせて、また、小さな丸材で間の長い土止めの階段をしつらえた坂道に降り積もった黄褐色の落ち葉の層に美を見出して、すばやくカメラに納め、足早に鬼杉へ急ぐ。
 ここでは四、五名のグループが食事中であった。携帯用ガスコンロで汁物をつくっていた。午後一時五分過ぎであったろうか。すこし時間をとり過ぎたかなと思い、昼食を済ませ、持参の三脚を立てて自分の写真を撮り、南岳へ急ぎスタートしたのは1時20分頃だったと思う。
 まもなく左手下前方に、大南神社を抱え込んだ岩窟が見えてきた。いつもの見慣れた景色である。昨年来たときは、もう少し紅葉がこのあたりにはあって、華やかであったとの印象が裏切られた思いであった。それでも道を入り込み、のぞき込んで確かめてみたが、今年は何かこのあたり物足りない景観だな、と思いつつ歩を進めて登ってゆくと、すぐ上に大きな立派な道標が立っている。道標には次の文字がはっきりと読めた。右方向へ《南岳山頂を経て上宮へ至る》と。また少し上、左手には左方向へ《奉弊殿に至る》と。右方向へ進路を取る。早く鎖を登り、その上の岩から紅葉の山々をカメラに納めようと思った。20メートル位進んだろうか。一寸いつもと様子が違う。すぐ引き返した。道標をもういっぺん確かめる。間違いなく《南岳山頂を経て上宮へ》となっている。「よし、だが時間をすこし損したな」と舌打ちしながら足を速める。上方に紅葉を探しながら。
 道はいつしか干上がった河原跡のようで人の頭大の石がごろごろし、やがてそれはもっと大きくなり、枯れた草木や落ち葉が積もり、その上に樹木が倒れたりして、台風一過の様相を呈して来た。これはおかしい。こんな道じゃない。 間違えたか! 鎖まで行くまでに先ず材木石を通るはずだ。いつもの道ではない。引き返せとばかり、踵をかえして走るように今来た方へ戻っていった。もうあの道標のところに出るはずだがと、心積もりして注意してさらにバックしてゆくと右後方斜め上へ分かれて上がっている小道があった。ああ、この道へはいるのだったかと己の不覚を責めながら、半ば安心してロスした時間を取り戻そうと急ぎ足で歩く。少し道が狭いかなと思いながら進んで行ったが、小学生が手づくりで作ったような小さな道標のようなものを、やり過ごしたのに気がついた。引き返して確かめる。《左、智室窟、右、薬師峠》とかすかに読めた。
 はてこの道でもない。私は今回に限って25,000分の1の地図をもって来ていなかった。また案内書ももっていなかった。智室窟は確か今日来た奉幣殿寄りに案内板があったようだが、薬師峠は私の記憶にない。これは確かに道が違うと確信するや、また元の方向へ引き返したのであった。
 「ああ、三十分は損したな、帰りのバスは三時五十分だからよほど急がないと間に合わないぞ」と焦り始めていた。河原跡のような道に出た。「さあ、もう少しであの道標へ出るぞ、この先にさっき通ってきた普通の山道があるはずだ」と目を皿のようにして探したが、道標からきた道らしい道が見当たらない。おかしい。不思議だ。あの道がない。あの道標の近くに来ているはずなのに、それらしい道がない。だんだんその辺りが全く始めての場所に変わったような気がして来た。
 私は決断した。さっきの道標の近くにいることは間違いない。従ってバックして来た方向よりやゝ右手寄りに登って行けば、必ず正しい登山道に出るはずだ。方向を定めて道なき坂を直進しようと決心したのであった。最初のうちは何とか、思った方向へ進むことができた。一部急な坂や熊笹の薮があったが、これを突破し、やれやれとその上に出たら、断崖になっているではないか。ここを無理に降りて怪我でもしたら元も子もない。後退して登りやすいルートを探そう。道のないところを登るというのが、本来の登山であったということや、登山訓練のために道なき薮こぎをするなど本で読んで知ってはいたが、私には始めての経験である。試行錯誤の始まりだった。
 無理して登った後の下りは、登るとき以上に困難がある。これも始めて経験した。ようやく降りてもういっぺん最初に決めた方向に適う、見た目に登り易い山肌を探し再び挑戦した。こんどは一面熊笹のやぶが待ち構えていた。下からはまったく見えなかったし、すぐ終わるであろうと無理して進んだが、終わるどころかますます深くなり進退きわまってしまった。丈余の高さの屈強の軍兵が行く手に立ち塞がったのである。しかも股の下にもぐりこみ腿や急所を押し上げるのである。私の身体は完全に熊笹の上に乗せられて宙に浮いてしまった。熊笹の征服法は身を屈めて笹の下に潜り、根っこの茎の空き間を見定め、そこを手でかき分けて身体を割り込んで進むのがコツだということを登山部の人からあとで聞いた。大変な体力の消耗であった。斜め後方にバックしながらようやく脱出し、また道を自力で開きながら、最初のこれと定めた方向へ登って行ったが、三、四回上下を繰り返したあとの方向感覚は、完全に狂ってしまっていた。磁石もなく地図もなく、方角は全く分からなかった。太陽が沈むときに始めて、正確な西の方角を知り得たのであった。

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