2004.04.12

E-さんのつれづれ日記(終)

8回にわたる32篇の「E-さんのつれづれ日記」でしたが、読んで戴い
た方に厚く御礼申し上げます。

10年ほど前の、日記風エッセーですが、10年というのは長いようで短
いですね。日本経済の立ち直りという観点からは、余りにも長すぎます
ね。

日本はもとより、世界も、日本人も世界の人々も、殆ど進歩なしです
ね。むしろ退歩しています。今回のイラクに於ける日本人人質事件、い
まだに解決していません。情けない話です。

世界のリーダーよ。民族、種族の、宗教派閥の首領よ、政党各派の
党首よ、結局は各国々民のみなさんよ、皆さんの 「意識革命」が
要ですよ。 よー、よー。

   憂える一匹の子羊の叫びです。
   世界60億の子羊の叫びにしたいですね

Irebun

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E-さんのつれづれ日記 (8)

661/999 JAH01015 E-さん        Eーさんのつれづれ日記 29
(10) 94/04/18 22:39

装飾古墳の世界展を見て来ました。

 去る16日、福岡市博物館で「装飾古墳(5、6世紀))の世界展」を見
て来ました。いやぁ驚きました。単に古墳の壁画ということからきわめ
て幼稚なものだろうと思っていましたが、どうしてどうして堂々たる一つ
の文化だと思いました。もちろん絵そのものは幼稚で単純ですが、古
代の人々の精神世界という面から見ると、われわれ日本人の精神の
原型を見る思いです。土偶や火炎土器にみられるような、縄文土器を
生んだ民族の源泉エネルギーが死者を祀る墳墓の(宗教)壁画として
具現していると感じました。

 描かれている船、鳥、馬、さしば、靫(ユギ)、短甲、太刀、蕨、ひと、
家屋、いずれも、幼稚な絵ですが、三角、円、同心円、蕨手、渦巻き、
×、円弧文、直弧文などの組み合わせによる幾何学模様は、宗教的
意味を込めたものなのでしょうけれども、抽象化された精神性を感じま
す。現代の日本人たるわれわれの魂に響くものがあり、呪術性という
よりしみじみとした素朴な温みをもった芸術性とでもいうべき懐かしさ
を覚えます。

装飾古墳は熊本に多く次に福岡、不思議なのは横穴式墳墓が多い
長野県や茨城県にもあるのですね。邪馬台国とか、大和朝廷とか、
前方後円墳とかとの関係はどうなっているかなどと考えると興味津々
です。わたしは縄文人、弥生人という区別を特に意識しましたが、古
代史専門の学者から話を聞きたいものと思いました。

 装飾古墳の研究と壁画の模写をやっておられる、日下八光氏の永
年のご努力により復元された主要な壁画、石棺、石障などに描かれ
た絵の色彩は、白、朱、緑の三色であったり、朱、黒、緑の組み合わ
せ、黄、黒、緑、茶等の組み合わせであったり、単純明快ですが、全
体的構成、配色はすばらしいと私は思います。そして、さらに興味が
あるのは、これらの文様が線刻された銅鐸の模様と共通なものが多
いということです。ここで思い出すのは、銅鐸の絵は絵文字であると
する研究者の「本」を読んだ時のことです。文字というにはいたらずと
も、ある「意味」とか「祈り」とかを表しているという考え方にはロマン
があって、面白いと興奮したものでした。

 東京(千葉)、(?)はもう終わっていますが、福岡のあと、京都、宮
崎が予定されている由、そちらの方面の方興味がありましたら、一見
の価値ありと思います。
                             Eーさん


688/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 30-1
(10) 94/05/05 23:10

      … … … 天草小旅行 その1… … …

平成6年5月3日(火曜日)

 食事を終えてホテルの地下におりる。水族館に連なっている。朝の
観客は少ない。熱帯魚、温帯魚、寒帯漁、近海魚、遠海魚、大小さま
ざまの魚の遊泳、エビ、カニ類の遊歩をゆっくり見学した。ハタタテダ
イ、ソメワケヤッコ、ルリスズメダイなどを見て3年前の夏、タイはプー
ケットの浜でシュノーケルを楽しんだ時のことを思い出した。

 水族館を出て海獣パークへと向かう途中でイルカショウを行う場所
を通った。朝がはやいのでショウには早すぎる。掃除のおじさんとお
ばさんが掃除している。見るとイルカが2頭、頭をわずかに水面に出
している。「おはよう」と妻が声をかける。だんだんと近づいてくる。胸
びれを震わせているようだ。そのうちほとんど横向きになり、まるで
手を振るようにパタパタと水面をたたき始めた。そうだ。2頭ともわれ
われに挨拶を返したのだ。「おはよう。おはよう。」と思わず手を振って
応える。その間数分。その後で、オキゴンドウの骨骸を見る。子供向
け陶製海獣に跨がり記念写真を撮る。

 10時40分、本渡町天草国際ホテル玄関前でバスに乗り込み、本
渡バスセンター経由下田温泉へ向かう。この島は想像以上に大きい
島だ。島を一周すると半日はかかるという。今朝ほど、一週間前に予
約していた宿に所在地の確かめ電話をして、聞き出してあった近くの
バス停留所の名前は「しらさぎ橋」。55分かかった。下田温泉街の
入口に近く温泉センターの真ん前に“○島”旅館があった。古びた民
宿風の宿である。ゴールデンウィークのこと故、新しい大きいホテル
は予約不可能だったようだ。11時半過ぎに早めに着いた我々カップ
ルの前に現れたのは、田舎の農夫を思わせるオジサン、いや「じい
さん」と呼ぶべきか、は、色黒で案外長身である。あとで聞き出した
のだが、65歳である。「3時からだけんど、あがって休んで行きなさ
れ」とやさしい。何分早口だ。田舎の人にしては早くて聞き取りにく
い。案内された部屋は家族風呂の隣で、客の居ない時家族の誰か
が使っているのかも知れない。総体に昔の宿場の趣があった。

  「1万5千円、それにサービス2,000円でどうですか」という。や
っと取れた嬉しさに値段もたしかめていなかったようだ。結構ですと
答えるとあとは問わず語りに、ぺらぺらとしゃべり出した。あとで私が
まるで「立板に水だ」と形容すると、妻はその表現は適切でないとい
う。「油紙に火」だと。なるほどその通り。油紙も死語になったと思い
ながら兜を脱ぐ。聞けばいや聞かされたところによると、相当の土地
をもった農家、地主さんだったらしい。地下を掘ったら80メートルで
40度の温泉がでた。ほんとうにラッキーだった。穀倉として使ってい
た小屋を改造して、たってと頼まれた関西の知人に、今はやりのサ
ッシなどに取り替えて貸してやった。三間の広さがあるが家賃は未
だに1万円据え置きである。よっぽど金にこまれば1万2千円にあげ
るが、そんな必要はない。財産は絶対売らないつもりだ。昨夜は、
鹿児島からやって来たお客さんで賑わった。もう何回も泊まっている
お客さんである。宿はお粗末であるが、オジサンの料理がすごくい
いからやってくるという。よそのホテルの料理などくらべものにならな
い。とにかく今夜の夕食を食べてくれ。とにかくおいしいからと人のい
いオジサンは、長話の間に10ぺんくらい繰り返した。お茶が出るま
でに30分もかかってしまった。

 襖をみると大きな円形のシミが幾つもあり、畳みは古びて汚れて見
える。天井には何のためか直系5センチ位の穴が二つ並んで開いて
た。テレビは、小型の100円硬貨投入型である。布団をのぞいた妻
が言った。寝具は奇麗だ。じいさんの言葉を信じ期待しよう、と。昼飯
に親子丼をつくりましょうかという。娘家族の加勢をもらっての気楽な
稼業とみた。若い娘さんの味付けは甘く、じいさんと対照的であった。

 食事後あいにく雨がふりだした。明日かえる予定だから観光をやめ
る訳には行かない。タクシーを呼んでもらう。〇〇タクシーが催促を含
め30分位かかってやっと来た。おしゃべりじいさんに聞き出したお勧
めどころは、13仏公園と大江天主堂。その行程を告げると、道を知っ
た運転手の△△さんは親切だった。道路工事の関係から大江に先に
行くと言う。いっさいを任せて案内をたのんだ。五足の草鞋が歩いた
昔の山道を指しながら説明してくれた話に興味をひかれた。五人とは、
与謝野鉄幹(30歳) 木下杢太郎(23歳)、北原白秋(23歳)、 平野
万里(23歳)、 吉井勇(22歳)の五氏である。そうそうたる日本の明
治生まれの文学者である。 時は、明治40年7月~8月、柳川出身
の白秋の案内による約一カ月の九州旅行紀の題名を『五足の靴』と
いう。大江天主堂の近くにある「天草ロザリオ館」に地図・写真つきの
説明がある。

 紀行文によれば、五人組は富岡から大江までの八里の難道に迷
い、日暮れて、難渋苦行の山道で駐在さんに出会いやっと大江にた
どりついた。途中運転手の△△さんに「パアテルさん」という言葉を
始めて聞いた。スペイン語で宣教師のことだそうだ。紀行文の中にも
出てくる。白秋の詩の中にも使われている。当時のパアテルさんは、
フランス人のガニエル神父だった。因に今のパアテルさんは日本人
だという。パアテルさんはやはり外国人がいいですねとは、子供時代
を振り返りながら△△さんの回顧談。(内緒話だが、ウソか真か知ら
ない。日本人であまり評判がよくない人がいたらしい) (続く)

                             Eーさん


689/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 30-2
(10) 94/05/05 23:10 コメント数:1

      … … … 天草小旅行 その2 … … …

 車はやがて山坂をのぼり大江天主堂についた。丘の上にたつロマネ
スク風の白亜の殿堂である。昭和8年ガルニエ神父がその費用の大
半にあたる私財を投じ建立した。内部は、たいして広くはないが、塗装
もわりと新しく、小ぎれいで明るい、瀟洒な礼拝堂である。日本におけ
るキリスト教伝導と弾圧の象徴とも言える天草にふさわしい天主堂で
あり、天草四郎や隠れ切支丹の苦しみを偲んだ。天草ロザリオ館のキ
リシタンのジオラマ、隠れ家《屋根裏部屋》はぎょっとするほど真に迫っ
ていて身震いした。実物大の親子3人が小さな小さなキリスト像を拝ん
でいるのであった。祈りの声オラショが、生々しく再現される、というが
聞かなかった。

  吉井勇歌碑

    白秋とともに泊まりし天草の
        大江の宿は伴天連の宿

  「ただ秘めよ」      北原白秋「邪宗門・天草雅歌一節」

    曰いけるは    (イイケルハ)   
    あな、わが少女
    天草の密の少女よ    (ヒソノオトメヨ)
    汝が髪は烏のごとく
    汝が唇は木の実の紅に    (アケニ)
    没薬の汁滴らす    (モツヤクノ)
    わが鳩よ、わが友よ
    いざともに擁かまし    (イダカマシ)
    薫濃き葡萄の酒は    (クリコキ)
    玻璃の壷に盛るべく   (ギャマンノ)
    もたらしし麝香の臍は   (ジャコウノホゾハ)
    汝が肌の百合に染めてむ
    よし、さあれ、汝が父に
    よし、さあれ、汝が母に
    ただ、秘めよ、ただ守れ
    斎き死ぬまで、 (イツキ)
    虐げの罪の鞭は、さもあらばあれ、 (シモトハ)
    ああ、ただ秘めよ、
    御くるすの愛の徴を (シルシヲ)

 天主堂を後にして13仏公園へと向かった。小さな御堂の小さな厨子
の中に13仏が納まっているらしい。この公園に鉄幹、晶子の眼前の
景観を讃えた歌碑がある。

    天草の十三仏の山に見る
      海の入り陽とむらさきの波
                       鉄幹
    天草の西高浜の白き磯
      江蘇省より秋風の吹く
                     晶子

 この公園はここの高台から西海岸の代表的な景観が一望できるので
有名である。眼前にひろがるのは、頼山陽が謳った「雲か山か、呉か
越か ・・・・・」洋々たる天草灘が、南には海中公園・大ヶ瀬の奇岩、北に
は名勝妙見浦、左手後方は白鶴浜の優美な眺めがあり、そして、13
仏のすぐ後ろには、引き込まれそうな断崖。私ひとりが運転士さんの
案内で傘をさしながら足許をのぞき込んだ。まさに“引き込まれそうな”
怖さを覚ゆ。

 岩風呂に身を沈め2日間の汗を落とした。さして広くないが温泉風
呂の雰囲気を楽しむ。いよいよ夕餉の始まりである。宿のじいさんの
ご自慢だけあって度胆を抜かれた。皿数14。これでもかこれでもか、
と出てくる。箸を付ける前にまず写真を撮ろうとすると、じいさんが現れ
た。卓の上に奇麗に全部、載せあげて飾ってくれた。海産物主体の
文字どおりの海鮮料理である。盛り付けも、皿もすばらしい。2時間半
かけて全部平らげた時は、満腹そのもの。ビール1本とかんびん3本
に助けられて全部腹に納まったのであった。小生曰く「ああ満足、満
足。もう死んでもいい。あの断崖から ・・・・・・」。

 平成6年5月4日

 夫の帰郷先、龍ヶ岳から帰福する娘夫婦と孫2人の車を、松島バス
停留所で11時半に待ち合わせることにして8時40分宿を出る。宿の
主人に「西島の宿を絶対宣伝してあげる」と約束をかわして別れた。
朝食の大部屋はカラオケが歌えるようになっていたが、御馳走でその
時間はなかった。部屋の床様には仏像、ケースのなかに鎧兜が飾ら
れ、水牛の角、古い杵などの農具、いろり用品、自在鉤のなつかしい
陳列がみられた。朝食は勿論純和風で、泊まりの三家族が集まり、
家族的雰囲気の中で終えたのであった。

 松島のバス停で小一時間ほど待っていると、先方の親御さんたちも
送りがてらについて来られていた。近くに来ながら挨拶に出向かず自
分たちだけで天草の観光を満喫した非礼を詫びた。車は、天草五橋
をわたり一路福岡へと走った。黄金週間の中日、車はほどほどに混ん
でいて渋滞はなかった。夕方、6時ごろ無事帰宅する。

 昨日は雨ながら、天主堂への道はバスがやっと通れる“いろは坂”
みたいな曲がりの多い径もあり、緑ゆたかで森林浴を楽しむ風情が
あったが、きょうは天気があがり山や野は新緑の若葉で輝いていた。
時あたかも端午の節句を控え、鯉幟が翻えっていた。

  乳飲み子の笑顔にせまる若葉かな 泊舟
  アパートの柵を小泳ぎ鯉のぼり    泊舟
                               Eーさん


01274/02000 JAH01015 E-さん    Eーさんのつれづれ日記 031
(10) 95/02/23 07:28

 こんどの阪神大震災でボランティアの活躍が随所に見られましたが、
わが町ではほんとに《ささやかなボランティア活動》が始まったばかり
です。「環境美化」キャンペーンと銘打つてあります。いわゆる町内清
掃、美化活動です。

 一昨日の朝9時から公民館に集まり、区長さんの挨拶から始まりま
した。あくまでもボランティアですから人数は大して集まりませんでした
が、空き缶集めには十分な人数でした。作業は一時間程で終わりまし
た。因に私の班(25世帯)では区の役員をしている人と班長さんと私
の3名だけでした。日曜日ではあり、単にチラシを配っただけの呼びか
けではなかなか人は集まらないようです。何の気なしに路上に捨てる
人が如何に多いかと驚きました。しかし、捨てる人を非難する不快感
よりも共同で町を奇麗にする喜びを味わうことができました。我々の
町私たちの町という意識ですね。

 いざという時隣人が助け合うという気持ちは、皆持っているということ
が今度の阪神大震災ではっきり証明されましたが、もっと日ごろから
隣近所と親しくしていれば、どこにどんな人が住んでいるかが分かって
いるから、下敷きになっていないか探せた筈だと語っている人がいまし
たね。なにか一つのことをすることによって友情は湧いてくるもの。強
制でなく、自然に、気持ちよく共同の作業をやることが連帯意識を育
て、緊急時お互いに大きな支えとなり、力になる。スポーツ競技、親睦
会の他、ボランティア的共同作業を一緒にしておくことが大事なことだ
と思いました。子供を連れて来て、一緒に拾っている人を見かけました
が、微笑ましい情景でした。

  青天に音を消したる雪崩かな  京極杞陽

 雪崩は春先になってから起こることが多い。雪崩の起こるきっかけ
は、急激な気温の上昇、突風などの気象の変化や、人や動物の通
行、落雷、人の声など音による場合もあるという。音が全然聞こえない
という不気味さに、青天が効いている。~ これは事故が起きていない
「雪崩」を詠んだものでしょう。

  傾ぎたるビルに嘯く余寒かな  泊舟

震災の句は詠みにくいですね。どうしても感情移入が激しく生になり
ますから。

                  1995-2-22 08:00 記 Eーさん


01297/02000 JAH01015 E-さん    Eーさんのつれづれ日記 032
(10) 95/02/24 14:13

〇総理大臣の犯罪
 2月22日、ロッキード事件丸紅ルートの最高裁大法廷の判決が出ま
した。桧山被告等の有罪が確定し、ロッキード贈収賄裁判は19年ぶり
にやっと終結しました。ロッキード事件は、総理大臣の犯罪として国
家、国民に取って大きなショックでしたが、今度の裁判終結は、戦後の
自民党政治に対する司法の断罪を意味しています。「政治は力なり、
力は数なり、数はカネなり」というのが田中角榮・元首相の政治哲学、
あるいは政治手法でした。カネをばらまき、派閥の頭数を増やし、政治
を意のままに動かす。カネがすべてという拝金思想・金権政治はつい
最近まで続きました。いや、未だに続いていると言っていい。もう少し
早く裁判はできないものか?という疑問を抱かせます。

 時間は悲しみを癒す最大の友人ですが、犯罪に対しては憤りや憎し
み、ひいては反省心を風化させる大悪友ですね。政治犯罪に対して
は、法は、慎重さは必要でしょうけれども、もっと峻厳、迅速な裁きを見
せなければならないと思います。摘発から最終決着まで19年は余り
にも長すぎます。今後は精々10年以内に結審させるというコンセンサ
スが為されるべきだと思います。国民の平穏な生活を脅かす犯罪につ
いても然りです。「鉄は熱い中に打て」の格言を、敢えてこの場に適用
したいと考えます。

 金権政治は、「カネ万能思想」を政界のみならず、一般国民生活の中
にも跋扈させました。この思想はバブル崩壊後の今日でも依然として
残っています。この判決がせめて10年前に出ていたら「日本の政治の
仕組み」は、もちろん、国民の生活意識ももう少し変わったのではない
でしょうか。5億円という金額も、いまでは微細な額という感覚になって
しまった感があります。庶民にとっては、億という単位は依然として手の
とどかないものですけれども、悪いことでも何でもやれば、手にはいる
額という錯覚を植え付けたように思えてなりません。政治不信、政治家
不信は言わずもがなです。

 あの事件発覚以来、偶像が破壊されるどころか、修復の動きもあっ
たりして、論ずることは笑止千万。言うも野暮な話ですが、偶像崩壊後
の生き方が、政治家にも、国民にも出来ていない。選挙に対しても、国
民生活に対しても「意識革命」しか現状を救う有効な手段はないのでは
ないかと思うのです。国民はもっと怒るべきです。この事件の裏側の問
題すなわち商品売込側の強引な賄賂商法についてもメスを加えなけれ
ばなりませんが、一朝一夕には片付かない問題ですね。弱きものよ汝
の名は《人間》と《欲望》。

 あの1月17日の阪神大震災は日本の政治家と日本国民に大警鐘を
打ち鳴らしたものです。金と平和ボケで肝心のものを見失っている日本
人に対する警告だと受け取めたい。なんでも熱の冷めない中にやらね
ばなりません。熱しやすく冷めやすい性格は国民の通性です。もう一つ
の「諦めの早さ」とも、訣別しなければなりません。

  夕支度春菊摘んで胡麻摺って  時彦

 年中、出まわっているようですが、春菊は香りがすばらしい。地方に
よってはすき焼には使わないのではないかと思いますが、昔ながらの
純日本風は何と言っても「和えもの」ですね。ゴマの香しい匂いとともに
春を持ち込んで来るのが、春菊の和え物。ほのぼのとした佳句です
ね。生きる喜びを感じます。草間時彦氏は、石田波郷門の俳人。

  栄螺焼く七輪出して炭焚いて  泊舟

これじゃ手法の盗作かな。それに懐古趣味が過ぎますか? (^_^;) 。

                  1995-2-23 12:30 記 Eーさん

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2004.04.10

E-さんのつれづれ日記 (7)

605/999 JAH01015 E-さん        Eーさんのつれづれ日記 25
(10) 94/03/09 07:24 コメント数:1

 3月6日は啓蟄だった。土中に冬籠もりしていた虫が地中からはい出
して活動を始める日である。もう春だ。やっと季節が暦と一致した。桜
前線到来日の予告もあった。

 啓蟄や生きとし生けるものうごく 泊舟

 またこの日は実際に行って見た訳ではないが太宰府天満宮では曲
水の宴が催され、地方紙によると十二単の姫や衣冠装束に身を固め
た官人、実際はミス福岡や地元財界代表ら扮する24人がその日の為
に作られた清冽な曲流に沿って座し、盃の流れ来る間に和歌を詠み、
出来栄えを競った。なおこの間、琴や雅楽の調べに乗って白拍子や巫
女の舞も披露され、優雅さに包まれた宴に見物客は平安の昔をしのん
だとある。瞼にその典雅な光景を想像しながら作句。因みに、この日の
参拝客は10万人。

 曲水の宴へあゆむ白き足袋    泊舟
 紅梅の麗らを乗せて朱の杯     泊舟
 曲水の烏帽子の垂れの円弧かな  泊舟
 流觴を待つ歌姫の時とどむ     泊舟
 曲水や和歌の心を運びけり     泊舟

 実は今が見ごろと聞いて一足早く4日の午後太宰府天満宮に行き梅
の花を満喫した。紅梅、白梅、緋梅、黄梅、しだれ梅など色とりどりに
咲き誇る6千本の梅林は、観梅客で賑わっていた。にわかカメラマンに
成り切って撮りまくってきた結果をみると、写真は上々の出来だった。
天気がいいと写真も映える。咲き盛りの梅に逢えたのは、実に数年振
りのことだった。

 パソコン通信に凝ったお陰でこの日(6日)「ホームコピー/FAX」機
を購入した。もともとコピー機は欲しかったし、FAXはNHKの俳句吟行
会公開放送の際、一般からの応募に手軽に手書きで参加したかった
からである。コピーとかFAXはいまや日常の家庭生活の必需品になっ
た感じがある。ワープロやパソコン程の操作の難しさはないが、年配
者は戸惑う人もあろう。現に私の年代ではビデオ再生とか録画と聞い
ただけで拒否反応を示す人がいる。今後は長生きしてもある程度の機
器操作ぐらいは出来ないと、折角の便利な時代の宝物を、指を銜えて
眺めていなければならない羽目になる。

                          1994-3-8 Eーさん


628/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 26
(10) 94/03/29 07:16

犬猫談義

 猫と犬の話題に花が咲いている。わが家では犬も猫も飼っていない。
成人して就職して独身寮、結婚して間借り生活3カ年を経てようやく会
社のアパートに入ったので、土台猫を飼ったり犬を置いて朝の散歩に
連れて出るような環境になかったからである。

 庭付き一戸建ちの家に住みたい、欧米の豪華住宅(正真正銘のマン
ション)とまでは行かなくとも、山里に近いせめて生け垣の囲いがあり
門構えのある家に住んで見たいという欲望は変わらないが、まあ30坪
位の庭があり其処に広い犬小屋でも設け、室内でもシャム猫ではない
が、普通の虎猫、班で結構であるから2~3匹飼って見たいという願望
は子供の頃からあっていまでも消えてしまった訳ではない。

 狭い家で猫を飼い、猫の額ほどの庭で犬を飼うなどとんでもないこと
だ。動物虐待もいいところだよ。止めときなさいと言いたいが、このせ
ちがらい世の中ではぜいたくも許されまい。犬猫にも辛抱ねがって共
存、共生の狭いながらも楽しい世界を築きたいという人はどんどん飼う
がよろしかろう。

 こんな言い方をするところを見ると、お察しの通り、余り犬猫は好き
ではないのである。若い頃、猫は大嫌いだった。犬はまだ好きな方
だ。朝の散歩などで犬様にはよく出合うが吠えられたり噛み付かれた
りしたことはただの一回もない。向こうの方から尻尾を振って近づいて
くる。飼い主が綱で引いていてもだ。犬には絶対好かれるタイプと自
慢している。よく言われるように目線を同じ高さにして動物に接すると、
相手は親近感や信頼感を覚えるのだそうで、これは極力利用してい
る。

 猫は嫌いだという理由ははっきりしている訳ではない。まあ通説にし
たがっているに過ぎない。いわく、猫は怠け者、居眠りばっかり、態度
がでかい、人に媚びない、独立独歩の精神に富んでいる。しかし、最
近猫をかわいがっている人を見て見識を改めている。猫は心底可愛が
る人にはなつくのである。甘えるのである、訴えるのである、利口なの
である。余り犬と変わらない。実は姪が猫を可愛がっている。いろいろ
話を聞くと猫も捨てたものではないと思うようになった。

 特定の動物が好きか否かは年齢とともに変わって行くものらしい。
人間一個人の住む世界は加齢とともに広がり、同胞はもとより動物、
植物を問わずあらゆる生物を暖かく包み込んで考えるようになるので
はないか、いや、逆に自然界に取り込まれて同化して行くのではない
かと思う。最近なんでも好きになれそうな感じである。

 好き嫌いの境界が薄れ《シンパシイ》の世界が広がっているというこ
となのかも知れない。今も犬でも猫でも飼える状態ならばまた新しい
世界を発見できるであろう。真の動物愛が生まれるであろう。そして真
の人間愛が理解できるであろう。

 勝手な観念論はこの位にして、俳句の世界に里帰りしよう。

 犬にからまる季語は「犬ふぐり」と「エノコログサ」、猫については「猫
の恋」と「猫柳」である。犬ふぐりは、春、植物、ゴマノハグサ科の小さ
な二年草。春早く淡紅色の径2ミリくらいの花を咲かせた後、短毛を密
生した、丸い球を2個並べた形の果実をつける。その形が犬のふぐり
に似ているのでこの名前がある。猫の恋は同じく春、皆様ご存じの狂
るおしさである。ここでは「猫柳」と「エノコログサ」を対比しよう。

 猫柳はヤナギ科の落葉低木。早春葉に先立ってやわらかいビロード
のような白毛に包まれた蕾をだす。このふっくらとした花穂を猫の尾に
見立てて猫柳と名付けた。一方エノコログサは、秋。イネ科の1年草。
5、6センチの花穂は緑色で毛に被われ子犬の尾を思わせる。一名猫
じゃらしとも言う。いたづらと小さな実りを予想させる。恋やふぐりという
と生命の根源ではあるが、如何にも生々しすぎる。その点エノコロ草と
猫柳は花穂を小動物の尾っぽに因んでつけたところがいかにも可愛ら
しい。いのちの芽生えと結実を思わせて文学的である。猫柳は芯の強
さはあるけれどふさふさしたやわらかさにつつまれたか弱い存在なが
ら、冬の厳しさからやっと解放された早春の息吹がある。一方エノコロ
グサは幼子の遊び。子犬のじゃれつきやワルツを想像できないか?

   猫柳高嶺は雪をあらたにす   誓子
   猫柳湖畔の春はととのはず  播水
   孕みたる小房のひかり猫柳  泊舟

   猫じゃらし吾が手にもてば人じゃらし  誓子
   ゑのころも垂穂となりぬ秋の野路   桃里
   猫じゃらしおいでおいでと招きあふ   泊舟

                      1994-3-28 22:18 Eーさん


631/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 27
(10) 94/04/03 07:39

暫しの別れか、永久の別れか?

 今日は特別の日である。実は昨日突然の誘いを受けた。句友の一
人が東京へ行くという知らせである。明日送別会をするから出て来れ
るかという。たまたまエイプリルフール。そんなことはあり得ない。結婚
するのだという。騙されたと思って今朝改めて電話した。間違いなく本
人だという。複雑な気持ちだ。あの人が今更再婚だと。娘さんなら分か
る。それで東京へ行くのだ。すくなからざる動揺を禁じ得ない。複雑な
気持ちをもって宴会場へ赴く。やはり本当だった。

 最後で挨拶しろという。咄嗟のことであわてた。あわてついでに心の
丈を述べた。 「我らの句友、瑞穂さんが結婚して東京へ行く。男性に
とっては恋人、同姓にとっては姉か妹。去る人を見送るのは寂しい。
会えば別れの人生。しかし東京で今まで同様、同じ句会で活躍してく
ださいね。第二の青春、頑張って」と挨拶した。

 雑談で話したのだが、人生二度結婚説。こんなに寿命が長くなると
有り得る話だ。いくら愛を誓った夫婦でもいずれかが先にこの世を去
る。残されたものはさらに何年かの命がある。同じく残された異性が
ある。ならばそこに別の人生が、圧縮された第2の人生があってもい
いのではないか。いままで幸せだった、もう一つの幸せを求めてもい
いのではないか、昔の倫理を離れて、さらにもうひとつの人生をという
のは、今後は許されるのではないか。先に逝ったものも許すのではな
いか。私は許したい。

 句会の送別会である。当然別れの句を詠んで送ろう。寄せ書きに
句を書こうということになった。突然である。即興の句を詠んだ。

 《嫁ぎゆく君の頬紅鳥かへる》

 田舎の駅に降りて田舎の焼鳥屋へ寄った。驚いた。若者がいっぱい
いた。年の頃20歳~25歳。若者の歌を歌っていた。若者の歌にもい
い歌があるのを知った。いわく「すれ違いの純情」T-BOLAN だそう
だ。日本語の歌詞に今はやりのメロディ。徐々に調和しつつあるよう
だ。青春に変わりなし。若者をなつかしげに眺めていた。

                        1994-4-2 23:59 Eーさん


640/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 28
(10) 94/04/06 23:15

土門 拳の「古寺巡礼」

 先月NHKテレビで土門 拳さんの生前を偲んで、その人と写真の
紹介があった。その後書店に行ったら、昭和38年7月30日発行の
「古寺巡礼」の国際版が平成6年4月5日発売されるとのことで、限
定2000部という触れ込みで予約発売をしていた。ちょうど帰ろうとし
た時に目に付いたので、サンプルとして飾ってあった実物の大型の
写真の前に立ち止まった。説明をする売り子さんの声にはまったく耳
をかさず、しばし釘付けになって見入ってしまった。

 見開きになっていた頁は法隆寺西院金堂全景であった。瓦、壁、松
などの対象物のカラーの色彩の見事さ、確かさ。濃淡、陰影、バランス
がなんともいえず“いい”のである。実物どおり、というより実物以上に
ということになろうが、さすがプロの写真家、素晴らしい芸である。言葉
を失ってしまった。素人では出せない色である。入魂の作品であり、最
高の印刷技術の賜物である。思わず手を合わせたくなったのは、対象
がお寺さんの建物だからか、作品の品格に対してであったか?聞けば
仕上がりの全作品に土門は目を通したという。どの道でも、プロはかく
あるべきと思った。

 次に見入ったページが、金堂西側脇侍菩薩立像と釈迦三尊像。左側
の脇侍菩薩は渋い金色に輝いている。面差し、印を結ぶ両の手、衣の
襞、肩から胸、お腹の線と膨らみ、後背の刻み、すべての存在が写真
と思えず、立像の前に立っているかのごとく迫ってくるのである。瞬きせ
ずにただ見入るばかり。深い味わい。感動。見るものをして立像と一体
化する写真の魔術。写真と思えず、立像そのものと対面しているので
ある。菩薩の内面から発する雰囲気が見るものを包み込むのである。
彼のは魂で撮った写真だ!全体的に暗い釈迦三尊像も同じ。見入る
時間に比例して不思議や像が浮き立ってくる。

 法隆寺夢殿の「救世観音」頭部。神となった聖徳太子のご尊顔 (真偽
は?) である。見るときの光線の具合で幾様にでも変わるものだが、こ
んな感じでみれるのは土門の写真だからであろう。これも像の内部か
ら滲み出る《なにものか》がある。感じるのだ。

 さらに数葉じっくり見とれてから、売り込み嬢の説明をもう一度求め
て、ついに申し込んでしまった。勿論月賦である。その第1集と第2集
が今日届いた。彼の古寺巡礼なら1~2時間はいつの間にか経ってし
まいそうだ。初版に寄せられた推薦のことばが宣伝用パンフに載って
いた。

 目の力 .......................文芸評論家・小林秀雄

 土門拳氏の「古寺巡礼」は第一集からずっと見てゐる。この人の写真
 を見てゐていつも感ずる事は、実物に掴みかかる、躍りかかるとでも
 言っていいような、その眼の力である。私のまるで知らない実物もたく
 さん写されてゐるが、その力はいつも露はであり、それが私を打つ。

                    1994-4-6 22:55 Eーさん

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2004.04.08

Eーさんのつれづれ日記 (6)

522/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0021
(10) 94/01/30 14:01

一元論的健康考

 人間どの年齢でも、もっとも大事で、関心をひくものに「健康」があ
る。東京医科歯科大学および都立松沢病院の精神科医高橋和巳
氏の三五館発行「心地よさの発見」という著書を読んで、健康のこ
とに関して東洋と西洋の健康観がまったく異なることを改めて知っ
た。以下はその要旨である。

 西洋は二元論、東洋は一元論だそうだ。二元論では健康を病気で
ないこと、病気を健康でないことであるとし、病気と健康を完全に二つ
の異なるものとする考え方を取る。他方、一元論は健康にはいくつか
のランクがあり、病気とは健康のもっとも低いランクであると考え、病
気と健康を一体のものとして一元的に考えるのである。東洋的と言っ
ても、日本の医学にはこの考え方はなくもっぱら西洋的二元論が支
配的であるという。

 すなわち、西洋医学は病気それ自体を中心に考え、厳密に病気を
定義し、例えば、細菌、ウヰルス、ガン細胞、放射線、ストレス、ニコ
チン、過剰な食塩、過剰なカロリー、脂肪などの生命体にとって好ま
しくない異物が、身体の機能を狂わせ、細胞機能が破綻することが、
病気の原因である。これを研究するのが、細胞病理学である。従って、
治療はこれらの侵入者・異物を除去することが第一の目標となる。必
要ならば身体の一部であっても、病気に犯されたところなら外科的に
除去、抉剔も辞さない。

 一方東洋医学は、侵入者、異物よりも生命体そのものに注目する。
生命体はもともと自分にとって有害な異物を受けつけず、侵入したも
のを排除する機能を有していると考える。すなわち、生命は本来病気
にならない機構を備えていて、これが十分に機能しないときに病気に
なると考えるのである。健康な免疫機構は細菌、ウヰルスの侵入を
許さず、ガン細胞を除去する。健康な食欲は過剰な食塩やカロリーを
受け付けない。健康な心身が育ちつつあるとき、ニコチンやストレス
は自然に避けられるのである。

 最近、人間には自然治癒力があるとか、ガンなどに対する「生きが
い療法」とかが実際に採用され、かなりの実績があがり、その存在や
効果が実証されているように思われる。これらは根元的に、東洋的健
康観に基づくものと言ってよいのではなかろうか。私は最近《心と体の
相互的に微妙な関係・作用》というものを重視し、いたずらに西洋医学
や人工薬のみに頼る偏向はボツボツ矯正していく必要があると思う。
なによりもヒトとして160万年も前から人体の中で培われて、伝えられ
てきた強靭な生命力を信じ、十分にその機能を発揮させるべきだとす
る能動的な考え方こそが、健康を考える上で、少なくとも健康と取り
組む心構えにおいて、現在、最も必要なことではないのか。

 高橋和巳説によると、健康ランクは、高次健康、普通健康、低次健
康、病気の4段階に分けられ、健康レベルは毎日変動していると言う。
健康法とは、個人個人でその揺れを体で感じ取ることが必要だという。
そして「心地よさ」という健康指標を用いて、現在の健康レベルを判断
し、健康レベル、健康ランクを高めることを意識し、努力するのである。
「心地よさ」を知るにはどうするか、体の軽さ、体と自分の一体感、今
のままでいいという満足感の三つの感覚を手がかりとすることを示し
ている。

 心地よさを感じられるようになったら、それを積極的に支える体作り
が必要になる。それは快食、快眠、快便の実現である。快食は満た
されないものを満たしていくこと、快眠は自然のリズムと同調すること
である。快便は体の欲求に従うことである。この三つを手がかりに体
を作っていく。さらにこの具体的、説得力のある説明が加えられてい
る。極めて常識的な言葉を使っていて分かりやすい。身体と心が統
合(同調)された時、そのヒトに高い健康状態が実現している。きん
さん、ぎんさんがその典型ではないか。

 文明という利器によって、自らの身体、家族、社会、地球が破壊さ
れていることを、ようやく悟り始めた人間である。原点に立ち帰って
考えることが大事だ。自然の法則を見直し、見習い、尊厳の眼をも
って周りの自然を見ることである、と思った。

                      1994-1-30 11:35 Eーさん


543/999 JAH01015 E-さん     E-さんのつれづれ日記 0022
(10) 94/02/03 07:35

昔の職場訪問

 入社早々から22年間勤めた今は別組織になっている職場を、所
用があって12~13年振りに訪ねた。まず社長に会う。親会社から来
た人である。もうかれこれ4~5年になる。以前から深いつきあいは
ないが知らない訳でもない。景気の会社に及ぼしている影響などを
聞く。深刻だそうである。消費者は、財布の紐を締めるばかりとぼや
いていた。広告宣伝費を節減せざるを得ないという。これを締めれば、
ますます客は減るかも知れない。逆に増やしても客はたいして伸び
ない。ディレンマとはこのことである。結論として減らした。業界ダン
ピングがまたひどくなったという背景がある。ありそうなことだと「ふ
むふむ」とうなづいて聞く。

 退職していると、その点気楽なものだ。一消費者としては安ければ
安い程よいのだから。といって、この時とばかり中身は立派なまま安
くなっているものに、すぐ飛びつくほどの余裕はない。ないこともない
が、こう金利がさがったのでは、先が心配だからいくらか高い時に預
けた退職金を取り崩してまで買う気はしない。しかし、贅沢はできな
いけれども、結構楽しい生活を送っているのだから、やはり幸せだと
思う。社員を抱えた社長さんは大変なご時世だなと同情して別れる。

 役員になっているかっての後輩を同じビルの2階に訪ねる。昨年夏
東京から帰って来たので、いっぺん会って見ようと思っていた。ここで
も、同じぼやきを聞いた。同業者でつぶれるところも出ているそうでや
はり深刻だ。尤もそのうちの一つは、やはりバブル崩壊の後遺症だっ
た。不動産に手を広げすぎた結果である。自業自得といえば、それま
でだけれども、その社員を考えると胸が痛む。会社が吸収されて行き
場を失い、職を探してくれと頼まれているので僕にどこかないかと聞
く。もとよりこちらにその器量はない。こちらは、退職の気構えとその
後の生活設計などの《話と相談》位にはのれるけれども、就職の斡旋
までは出来ない。聞くと56歳だそうである。非常に難しい。

 年金受給が、2001年から段階的に引き上げられ最終段階で65歳
になると、60歳から65歳までの5年間は働かなくてはならない人も多
いだろう。受け入れ側の準備がうまく行くとも思えないから、その頃60
歳定年を迎える人は大変だなあ。その頃にひっかかりそうな後輩に警
告を発して来たが、せめて今後の7~8年間を意識的に、計画的に生
活するようにとのアドバイスしか出来なかった。

 所属の協会の主催講演会の客集めの目的があったのだが、この問
題は快く引き受けてもらえたので僕自身の目的は果たせた。どうも、
古い同僚、後輩といっぱいやろうかという雰囲気ではなさそうだった。
早々に引き上げてきた。

                        1994-2-2 20:30 Eーさん


578/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 0023
(10) 94/02/15 22:19

 2月3日のアップを最後に日記を書くのをさぼってしまった。2週間近
く書かなかったことになる。まあいいか、これぞ《つれづれ日記》なる所
以だ。

この2ー3日の間に、ずっしり来るドラマを2つほど見た。「墨東綺譚」
と「智恵子抄」の二つである。 この二つの小説は余りにも有名だから
知らない人はないだろう。少なくとも僕の年代の人間でという条件付だ
が、しかし良く考えて見ると単に本の名前だけだったら僕同様に知って
いる人は多いだろう。他人はどうでもよい。僕自身のことを話す。30~
40年前に読んだ記憶はあるが、若いときは特にいい加減な読み方を
しているものだから、大ざっぱな印象しかない。智恵子抄の方は、詩的
な文章だなあという記憶と感動があったのを覚えている。墨東綺譚の
方は、なんだか暗くてしめっぽい印象だったということだけ覚えていて、
最後まで読んだかどうかは定かでない。

 ドラマの形になった永井荷風の「墨東綺譚」を見て、娼婦「お雪」の
世界は遠い過去のことのようだが、戦前まで、いや昭和33年(?)ま
で「遊郭」という形で厳然と存在していたのだという実感がまずよみが
えった。同時にあの戦後の苦しい時代も。

 農村の貧しい百姓の娘が売り飛ばされて「親孝行」という大義名分
のもと、文字通り一身を犠牲にして、まさに地獄に生きねばならなかっ
た不幸な時代、貧困な過去の日本というものを思い浮かべた。現在
の日本に生きる国民としては、今の日本に生きる「幸せ」をかみしめな
ければならないのではないかと思う。

 『お雪』役は、浅岡ルリ子で、『ちよみ』役とひとり二役、なかなかの
演技を見せてくれた。最初は単純に石坂浩二の奥さんという事実から
演技はどうかなと思って見ていた。ところが、あの今にも折れそうな華
奢な体つきながら、実に熱演していた。ただあのかん高い声の調子
は、好き嫌いがあるだろう。芝居の良さ、面白さという点では、知恵子
抄も同じで、テーマはまったく違うけれど、幸福に生きられるはずのも
のがどうしても不幸になっていく、これも運命的なものとしかいいようが
ない。

 しかし、やはりその陰に何か時代の暗い部分、何かあの時代の社
会的制度や思想が個人個人の精神をむしばんでいたのではないかと
思われた。「光太郎」役の滝田栄、「智恵子」役の南果歩の演技もそ
の役を見ごとに果たし、見ごたえがあった。

 最後の小説家の独白。女は聖女か魔女か。一人の女のなかにこの
二つが住んでいる。最後に作家は聖女を描こうと考えていたと気づく。
しかし、所詮男が描いた女の世界に過ぎないと荷風が考えていたとす
れば、先見性に長けていたと言わざるを得ない。シナリオライターの意
見かも知れぬ。原本を確かめてみよう。

 次はパソ通友人からの話題。さる11日放映の「NHK日本の美再発
見」である。京都の広隆寺には2回程行ったが、あの宝冠弥勒菩薩半
跏思惟像の美しさはどうだ。

>柔らかく、優しい美しさに包まれているのが特徴で、切れ長でかす
かに見開いた目、口元にたたえる神秘的な微笑、繊細な日本人の美
意識を象徴するものと考えられてきた。

 これは、わがパソ通仲間の一友人からの紹介文である。本人のコ
メントか、NHK のイントロか、和辻哲郎「古寺巡礼」からの引用か、詳
らかではない。著作権などというケチなことは申されるな、この感懐
は、私も過去2回実際に見て感じたことだ。素晴らしい弥勒菩薩像だ。
何時間見ていても飽きない存在だ。

 次はもう一人のパソ通友人からの通信である。『今年は5年間で得
た友達23人と年賀状を交換した。情報を得る目的で買ったワープロが
コミュニケーションの道具になったのは、嬉しい誤算だ。』 僕には素晴
らしいニュースだった。また《オフ》についても触れている。「画面文章」
の対話から初対面の「実対話」が実現し、話し込むうちに想像通りのイ
メージが展開して行った。・・・・ これまた感激でなくて何だろう。

                      1994-2-15 19:00 Eーさん


585/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0024
(10) 94/02/25 07:43

2月17日久しぶりに上京した。実は目的が三つ(プラス1)あった。

1.一番目は純粋にプライベートな問題なので詳しく公開できない。

2.次はバーンズコレクションを見ようと思った。18番室で評判になっ
 ていて優れた鑑賞記を読んでいたから是非見たいという気持ちが盛
 り上がっていた。17日一番機で羽田空港に到着するや上野へ駆け
 つけた。公園口で降り、垂れ幕のある方へ直行する。入場券を買う人
 はまだ少なかった。行列も短かかった。9時45分には入場出来た。
 中は満員の状態だった。絵画近くの柵を伝って順番に見る人の列は
 遅々として進まない。2、3歩下がって、頭の透き間から全体を覗く。
 肩が邪魔する、上2/3しかまともに見えない。説明も読みたい。

 いらいらが昂じる。しかし、展示作品がすばらしいからうなずきと感嘆
 の声を誰に遠慮なく出した。最終展示室から出口の階は、最初のル
 ノアール展示室の壁を二階から見下ろせる感じになっていた。近くか
 ら見た名画の印象と、二階から見下ろして観る絵画の印象はまるで
 違う。

 三重丸、二重丸、一重丸、×と4段階で出品作品リストに私の鑑賞
 (感激)度の採点メモをつけていったが、見下ろして見て、一重丸、
 ×の作品が三重丸へ変換するものが多数あった。もういっぺん引き
 返しさらに平面遠方より先の低評価作品を見直してみた。そして採
 点が逆転したものが16点あった。結果的に二重丸以上は40点で
 あったがその内16点が逆転したものである。なんと40%がカムバ
 ックしたことになる。私の素人の鑑賞眼であるからあてにはなら な
 いが、こういう鑑賞の仕方もある。
 
 混んでいるが故の遊びが出来た。いずれにしろ秀作がそろっていて
 見ごたえがあった。解説本を買い込む。ただこの「音」にあらずの第
 九ではないが、この「色」に非ずと叫びたい。鮮やかすぎるのであ
 る。経年変化の紗が捨てられない。味というか、深みに欠けるので
 ある。やむを得ない。娘に買ってやった「散歩」の額縁をぶらさげて
 館の外へ出た。東京は久しぶりだから、近くを散歩しようと思った。

3.3つ目は娘のボーイフレンドの面通しである。二人の間では、おぼ
 ろげながらマッチングのゴールへ向かいつつあるような気配がある
 のは、正月帰省の折本人が連れ合いに告白していた。宿泊もそこに
 定めてあらかじめ連絡してあった。その日の夕刻落ち合おうというこ
 とになった。相手は30分遅れて仕事場から駆けつけて来た。悪くは
 ない。酒が入ると饒舌になりいつも家内にたしなめられているから
 言葉すくなにしようと思っていたが、20代の若者には還暦過ぎの男
 が話をリードしなければうまく ゆくまい。ましてや相手は緊張してい
 るのだから。だけど今時の若者は度胸がある。

 あがっているのだろうけれどもあまり表情に出さない。適度に相槌、
 RESをしているのである。我々の若いときははもっとシャイであった。
 時代の変化である。そうと分かればこっちも気が楽になり、話はスム
 ーズに進んだ。結果は?甘いなあと思い つつ、内心では合格点を
 つけていた。

4.4番目は書かない訳には行かない極めて重大な番外編である。
 言わずもがな、オフへの出席である。長年のと言っても一年である
 が、願望であった。7人の方が来てくださった。嬉しかった。顔につ
 いて予想外だった人は3名だった。しかし、飲み且つ話すうちに画
 面での交流から受けていた印象と現実がいつの間にか融合したも
 のとなり、百年の知己のように自然の間柄となったのには我ながら
 驚いた。初対面のぎこちなさは長い人で最初の20分であった。あっ
 と言う間に4時間が過ぎ去った。オフ初体験は素晴らしい思い出とな
 った。次回を期待することしきりの心境である。

5.まだある。いや結果と言おう。ブリジストン美術館「モネ」展、出光
 美術館、東京ステーションギャラリー「フィレンツェ・ルネサンス素描
 展」を観た。最初の日、忍ばずの池に遊びついでに上野東照宮「冬
 ぼたん園」を楽しんだ。残雪がわずかに残っていた。吟行俳句の特
 選句や入選句が展示してあった。以上思わぬ収穫があった。

                     1994-2-24 23:55 Eーさん

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2004.04.06

Eーさんのつれづれ日記 (5)

492/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0017
(10) 94/01/09 15:22

新年宴会考

 忘年会あれば新年宴会あり。在職中はこれが楽しみのひとつであっ
たが、職場で若い頃幹事をやらされた時はやはり気を使ったものだ。
まず上司の好みや予算をにらんで、日時、場所の決定、何らかの趣向
をこらすなど、仕事の一環と意識して動いたのは事実である。新年宴
会の方が一層緊張したのを覚えている。

 退職してみたら、忘年会、新年宴会の回数は激減した。新年宴会は
いま2回にすぎない。一昨年まで会社の同期生会に参加していたが、
昨年からこの会には出席しないことにしている。同期会といえども、現
在は在職者と退職者が混在している。これに出席しても余り個人的に
得るものがない。この種の会合に限らず、昨年会社の延長上にあった
もの、個人的な付き合いのものの殆ど全部を整理した。退会すべきも
のは全部身を引いた。すべて自己本位である。自分に役に立つものし
か付き合わないということ、すなわち、お義理の付き合いは一切止め
るという基準をつくったのでさっぱりと決別ができた。

 正直言って月々の小遣いには限界がある。もはや社用族ではない
身分であるから、効率のよいものに振り向けざるを得ない。有意義なも
の、楽しいものに限って使う。私の場合、大半が本代に消えている。今
の仕事の付き合いはわずかな稼ぎの中から出す。派手なことはしない
から十分である。

 昨夜は、近所にすむ学生時代のS氏夫妻に拙宅に来てもらい純粋プ
ライベートな新年会を催した。昨年暮の忘年会を先方でやったからそ
のお返しの意味もある。関西風うどんすきを囲んでの歓談飲食。楽し
みこれに過ぎるものはない。卓には島根ワイナリーで買った“ロゼ”、
貰いものの日本酒“金箔大関”特選、本醸造、ブランデーはシーバス
の“ロイヤルサルート 21”を並べる。ブランドに弱い人間にはリッチな気
分をあおるに十分である。S氏夫人は手作りの特製サラダを持参。電
気なべから立ち昇る白い湯気と煮える香りを楽しみ歓談は絶えない。
いつかハワイへ4人で出掛けようと衆議一決。

 最後はカラオケで仕上げる。わが家ののはカラオケセットではない。
一昨年中古のマイク用アンプを買ってきてマイクが入るようにした。カ
ラオケ用レーザー・ディスクはわずかに10枚程度の買い置きしかない
が、一応自家製のセットとしては完成している。ディスクは古いなつか
しい演歌、歌謡曲、ポピュラー、シャンソン、英語歌詞盤、それに竹内
マリア(むすめ用)などである。家庭で楽しむには十分である。最近の
ものをすこし補充しておこうと考えている。11時でお開きにして友夫
婦は帰って行った。

                       1994-1-9 Eーさん


502/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0018
(10) 94/01/15 07:59

世の中の不景気と老後生活設計

14日付ス○○さんの「自分の死に方」と題するご発言を読んで大い
に感ずるところがあった。ス○○さんは、高齢化社会における「老人
介護」という社会的な問題と自分の将来の不安や人間の「死」そのも
のについて触れられていると思う。

 わたしは、老後生活設計について話をすることが多いが、正直い
って「死」の問題は殆ど取り上げない。還暦以前の人たちにこの話題
は早すぎるのである。自分でも意識して避けている。去年あたりから、
死に関する本を数冊買い込んでは来たが、まだ真剣になって読むほ
どの気持ちになっていない、積ん読の状態である。せいぜい臨死体
験というようなものを、興味本位で、読んでいるにすぎない。

 一般的な「人間の死」について観念的にすら考えることを避けてき
ている状態で、自分の死という意識、認識はない。60歳よりの平均
余命が男性20年、女性25年なんてことを人に言う手前、もっぱらそ
の時間の有効利用を強調することに時間をかけているから、「死」の
出番がないのである。 ただ《平均》という数字の絶対性を否定し、
「今、此処」の重要性を言及する場合にのみ引用しているにぎない。
自分自身、まだまだ死よりも生のほうのみを見ていると、告白せざ
るを得ない。

 世の中が不景気になり先行きが不安になってくると、暗い面を強
調しがちになってくる。9番の部屋での、一と言さん等のご指摘を
伺っていると、のんべんとしているのが気がひけるというより、物凄
く不安になってきて、「さあーて、退職後の一般サラリーマンの将来
生活の在り方を、如何に描いて提示すべきか」と悩み始めている。

 地球とか、地球人類、資源、環境、先進国、発展途上国、人口と
いうようなグローバルな見方と世俗的、現実的には日本、自分とい
う自己本位の見方に引き裂かれるばかりで、真剣に考えると神経
衰弱に陥って、はっきりした指針を打ち出せないのである。となると、
私としては、万事、現実の、ありのままの実態や情報を、正確に知
り、伝え、考えられる対応の可能性を提示して、一個人として、自
分の現状に照らし、熟慮、選択し、自主的に行動してもらうより他
に方法がないのではないか?と、思い至った。

 一方政治家、行政官、マスコミ、教育者、各産業従事者、サービ
ス提供者、芸術家がその社会的役割において、少なくとも21世紀
の地球、人類、環境をしっかり見つめて、確かな情報と現実的対処
方法や手段を、国民の前に打ち出すべきときである。~すなわち各
分野で鮮明なビジョンと具体策を幾つか国民に提示して選択を迫る
べき時である。目前に不景気と高齢化社会の問題が露呈されてき
つつある今一刻も逡巡は許されない。

(直接の関係はないが、悪魔という名前をわが子につけた親は、実
に厳粛な警告を今の政治家や世のすべての人にに突き付けたつもり
だろうか?)

 国民ひとり一人は人間の「生と死」ということを、哲学的に考える時
が来たことを悟らねばなるまい。そして現実生活にその思考の結果
を責任をもって反映させることを義務と感じなければならない。観念
論では世の中はよくならない。個人的には個の成長、開放、開花、
結実より無意識に死へと至れば、次世代へ生きたことにならないか。

                       1994-1-14 Eーさん


509/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 0019
(10) 94/01/20 09:05

仕事始め考

 日本語大事典によれば仕事始めとは、「正月2日、4日、11日に行
う仕事初めの行事」であり、「本来は一つの儀礼で予祝の意がある。
鍬入れ、初山などの家業始め。また現在は官庁や会社の御用始め
も含む」となっている。官庁で御用始め、会社では仕事始めというの
が、もっとも普通のようである。本来はその年の仕事始めを祝っての
儀式であり現在も身近なところでは正月4日に地方では知事さん、
市長さん、会社では社長が職員や社員に年頭の挨拶をし、さらに職
場でそれぞれの長の挨拶と簡単なお祝があり、私共の在職時代は
翌日から正規の仕事をしたものだが、現在でもそれは守られている
ようだ。ただ、昨今地方官庁において、4日も5時まで仕事をすると
ころもあるようだ。民主主義下のお役所のサービスのあり方はとして
世論に押されたせいらしい。

 民間においては、商家の初商い。不景気のせいか最近2日から開
業するところが出てきているが、3日、4日がやはり一番多いようだ。
正月休みの時、新年の買い物をする楽しみは大きい。不景気なれば
こそ早くから初稼ぎをしようという魂胆かもしれない。

 ところで、退職してみるといわゆる「宮仕え」としての仕事はなくなる。
わたしの場合は、アルバイト的自営業とでもいうべきものであるから、
その年の最初の仕事日が仕事はじめである。今年は12~13日で
あった。仕事始めは、やはりいつもより緊張はするが、在職中のよう
な社長の訓示を受ける訳ではなし、単に「しっかりやろう」とみずから
を引き締めるだけである。

 仕事といえば、サラリーマンはどうしても「宮仕え」という観念に今で
もとりつかれている。我々の世代は「仕事人間」といわれ、世間から
批判または非難の面差しを受けるようになってから、久しい。「私は
仕事が好きだ」と公言することはなんとなく憚られるし、そう言えば白
い目でみられるのが普通になった。長い労働時間、過労死などから
来た当然の風あたりで、改善の方へ向かいつつあるのは結構なこと
である。

 ところで、江戸時代の庶民は仕事をどのように考えていたのであろ
うか。立場によっては人に忠実に仕えることを本旨とした人々が多か
ったと思うが、やはりその仕事にプライドを持ち、その道の達人となる
べく精進したのではないか。すくなくとも「心意気」をもっていたのでは
ないかと思う。「仕事」に漢字で仕えるという意味の「仕」をあてている
が、日本語としての「しごと」は本来は「する」の連用形名詞であると
解釈したほうがよいようだ。退職者の身分からこんなことを言うと非難
されたり、羨まれそうであるが、仕えるという意味から解放された「し
ごと」は実にたのしい。他人のためということではない、社会のためと
いうことでもない。いわんや自分のためということでもない、何かをす
ること自体という意味の「しごと」であるから楽しくないはずがない。

 私はよく40歳台の中年者に「あなたの今の生きがいはなんですか?
」と改まって聞くと積極的に返事がかえってこないことが多い。勝手に
指名して聞くと、趣味をもって答えたり、子供の成長という答えが帰っ
てくることが多い。仕事という言葉はあまり出ない。しかしよく考えて
見ると、改めて「生きがい」はと聞かれると答えられない人が多いの
は、現在「生きがい」と言うことを意識しない程「幸せ」であるか、仕事
や家庭に熱中しているからであって「生きがい」など考えることがない
からであると思う。

 ものごとは何でもそれを失った時に始めて、悲しみ、惜しみ、落ち込
むのである。そしてその大事さ、重要さ、かけがえのなさに気づくので
ある。役割もそうである。人生役割を感じないから、孤独におちいるの
である。寂しさを覚えるのである。退職者の寂しさの最大原因は、仕
事の喪失であり、役割の喪失であると思っている。寂しさ、孤独から
脱却するためには何が最大の救いとなるか。逆の思想、すなわち本
来の「しごと」と、出来れば、社会的役割を、「自ら、自分に、課する」
ことに尽きる。

 本来の「しごと」とは、自分の本性にかなうことをすることである。社
会的役割とはまず家族、多くの場合夫婦ということになろうが、お互
いの生活上の役割をもう一遍見直し、お互いに納得の行く役割を担
うことである。これで、寂しさや孤独、ましてや最大の不幸である離
婚などということは、避けられるであろう。次に自分の本性にかなっ
た趣味の追求や、地域社会参加、身近かなサークルを出発点とした
ボランテイア活動など、新しい自発的活動をすることが、あたらしい
「しごと」であり、生きがいのある、しあわせな、意味のある第2の人
生を生きることにつながると思う。

                      1994-1-19 23:30 Eーさん

510/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0020
(10) 94/01/22 22:16

 北部九州にもようやく冬がやって来た。ここ数日、雪やみぞれまじり
の雨が降ったりして、暖冬だったこの地でも外に出るときは、膨れ上
がった二重の「マウンテンパーカー」を着込む有り様だ。昔の九州は
もっと寒かった。子供の頃、雪遊びも大分やった記憶がある。なあー
んて、なんでも昔をなつかしむ年齢に達したのかと思うと、ちょいと
悲しい気もするが、それで落ち込んだり回顧の世界にもぐり込むの
ではないから「まぁいいか」と自らを慰めている。

 先だって子供に悪魔という名をつけた親が問題になり、マスコミを
賑わせたが、いまだにこの親の考えが私にはよく分からない。実は
本夕、某局の「まんが日本昔ばなし」というテレビ番組 ・・・ 実は私
の好きな番組なのだが ・・・ 見ていて思ったことがある。むかし日本
は「言霊のさきほふ国」だった、なんてなつかしい、ある意味で「こわ
い言葉」を思い出した。今の若い人は、こういう言葉自体を知らない
だろうし、ましてや意味を知る由もない。むしろ「それなぁーに」と軽
くあしらう程度で、まったく無意味な死語としか感じない時代なんだ
ろうと思うと、文化の伝承の断絶、昔と今の日本人の精神構造の
変容と遮断が、ありありと見えてきて空しさを覚えた次第だ。今の
若い人は言葉に対する「対し方」自体がまったく軽薄で自己本位の
時代になってしまったのだなぁと思わずにはいられない。何故なの
だ、どうしてという疑問が限りなく起こってくる。

 「軽薄短小」だったか、こんな言葉がはやってきたのはつい数年
前だったような気がするが、これと期を同じうしてそれだけ世の中が、
ますますうすっぺらになってきたように思う。自己主張をしているので
あるが、重みがないので人に迫るものがない。一見輝いて見えるが、
実は僕らの目からみたら、そんなもの、すぐに飛んで消えてしまうも
のにしか思えない。浮けば浮くほど、浮力を失い、失速し、落ちてし
まうという印象を拭えない。ものの核心に迫る力、エネルギーがまっ
たく感ぜられない。浮力にまさる推力を全然感じないのである。こと
ばの表面的な使用がもたらしたものではないか?ここで一気に飛
ぶが政治家の言葉がそうだ。軽すぎるのだ。重い言葉を軽く使い
過ぎる。

 言霊、古代日本の「ことだま」の霊力が、ふたたびよみがえり、そ
の力により「幸い」が日本に、世界に満ちあふれて欲しいと願うのみ
である。歌だまとも言うべき方面では少なくとも東南アジアでは、よ
みがえり、生まれてきつつあるような気配もないこともないと、思う
のは僕だけだろうか。

                       1994-1-22 21:35 Eーさん

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2004.04.04

E-さんのつれづれ日記 (4)

474/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 0013
(10) 93/12/29 07:55

続忘年会考

 去る19日(日)と27日(月)に2つの忘年会に参加した。俳句の
会と最後の職場4人会である。それぞれ特色があって面白く、楽し
んだ。当日の俳句会は先生の出席なき、地区の句友のみの集い
であり、最初が句会あとが忘年会であった。3カ月ばかり句作を怠
っていた結果は覿面であった。主席者の選句に採用されたのはわ
ずかに1句で坊主同然だったのは情けないが、当然の報いだと思
っている。仲間だけの句会は、飛び切りの師匠格を欠くので、権威
のある講評が得られず、当てにならない面はたしかにある。その日
の投句は一応、主宰のもとに送られ、秀句、入選句が決定され、
句誌に掲載されるのである。後日師の講評、添削が投句者に返却
されるのであるが、その時、始めて自作の程度が分かるのである。
一縷の希望をつないでいる。

 句会はパットしない結果ではあったが、その後の忘年会では思わ
ぬ収穫があった。句友に俳画のできる79歳のI氏がいる。最年長者
であり多芸の人である。小唄、都々逸をよくし、さすがに年期が入っ
ていて、若いとき相当な遊び人であったことを偲ばせる。

頭は白髪で口ひげ顎ひげを蓄えたところは、まさに風格である。でき
れば将来外見だけでもあやかりたいものであるが、望むべくもない。
この熟歳の士もかって兵にとられ、中国(当時、支那)に派遣され戦
斗に参加した。占領後の治安にあたり、民心を安定させる任務を帯
びた「宣撫班」に属していた。日本敗戦。正確な日時と場所は聞き
漏らしてしまったが、当時の毛沢東の軍隊(人民中国軍)に逮捕さ
れ、連行された。
 
 I氏は連行の途中で銃殺刑を覚悟した。ところが意外なことが起こ
った。取り調べの結果、「徴用されて戦地に送られてきた、お前に罪
はない。多くの子女が日本兵に殺されたけれども、それはお前がや
ったことではない。その仕返しにお前を殺しても、また憎しみを生む
だけだ」として釈放されたのだった。中国人の「心の広さ」を知ったI氏
は、ライオンズクラブ等でよくこの話をするそうである。中国人はいった
ん友達になると、とことん相手を信頼し、決して裏切ることのない民族
であると言われている。これは故田中角栄氏がロッキード事件で逮
捕され有罪とされた後に、訪日のトウ小平氏が田中邸を訪問し病気
見舞いしたことは、我等の記憶にあたらしいところである。当夕、わた
しは中国人の暖かい人間性、心の広さと友人愛の強さを再認識した。

 次は、最後の職場の4人会である。まず銘酒をずらりと並べた飲み
屋に集合することになっていた。4人はいずれもかって最後まで崩れ
ない「酒豪」で鳴らした、つわものである。何を飲もうかということにな
り、わたしは“越の寒梅”“久保田”等、知っている限りの銘酒をあげ
たけれども、山口の“山頭火”のレッテルが目立つように宣伝してあ
った。これに気づいた俳句の仲間が、これにしようと提言、衆議一決
試飲した。甘口、やや酸味を帯びた飲みやすい、喉越しの良い美酒
であった。放浪の詩人、山頭火を思い浮かべながらの語らいは、一般
俳句との比較論を呼びまた一段と話がはずんだ。

 程よい《酔い心地》となり《適当な腹ごしらえ》もできて、河岸をかえ
在職時代からよく通ったおなじみの《バー》へと繰り込む。4人組の城
である。「城」はこの店の名前の一字になってもいる。若いころは相当
の美人として騒がれたらしく、今でもその名残を止めているマダムが
待っていてくれた。アフターファイブを、正確にはアフターシックスであ
るが、しっかり楽しんだ元の職場の思い出話に花が咲いた。本社ビル
を離れて別館に部屋を持っていたので、わりと自由にできる雰囲気が
あった。仕事時間中は他部署以上に真面目に一生懸命やったことは
勿論であるが、アフターシックスにおいては、仕事以外の、例えばホ
ットな政治問題なども徹底的に議論したものだった。勿論飲みなが
らである。最終的にはカラオケに移行するのを常とした。年一回の国
内慰安旅行、一回だけだったが、連休を利用しての、中国桂林旅行
は忘れられない。自由に語り合い、飲み会える友を生涯もち得ること
は幸せである。これから、年に3回は寄って飲もうという結論を出して
11時に散会した。
                      1993-12-28 Eーさん


476/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 0014
(10) 94/01/02 22:17 コメント数:2

 今朝は6時に起床した。いつもはも少しおそい妻も同時に起き出し
た。麗らかな新年が明けた。7時10分に家を出た。今年の初散歩
である。約1時間、久しぶりの田園風景を楽しみながらの健康ウォ
ーキング。俳句作りも兼ねている。

 散歩より帰ると29日に帰って来た次女もすでに起きていて私の帰
りを待っていた。家族の間で「明けましておめでとうございます。今年
もよろしくお願いします」の挨拶を交わす。御屠蘇の順廻りの盃を廻し、
いつものおせち料理でお酒を燗瓶からおちょこについで、乾盃!毎年
のことながら日本の正月はいいものだと幸せをかみしめる。

 新しい年を迎える気持というものは、還暦を過ぎ、馬齢を重ねる毎
に、微妙に変化するもののようだ。あらゆる欲望が衰えるせいか、平
和と調和と静寂を求める和気が徐々に強まってくる。同時に「青年の
心も忘れまい」と思う。

 昨年暮の朝日新聞に、いまどこでも新年の挨拶は「明けましてお
めでとうございます」であるが、地方では別の言い方が残っていると
ころもある、として鹿児島での次の言い方が紹介されていた。南九
州、沖縄地方での慣用の挨拶である。

  わこ ないやっしたろ(若くなられたでしょう)
  わこ ないやしたけ (若くなられましたか)

 この表現は高齢化社会の現状にふさわしいのではないかと述べ
てあった。人間避けられない加齢を、加算でなく、減算でいこうという
思想である。正月を迎えるたびに一歳若くなる。気分の上だけでも
そう思いたい。人生50年時代と違うのである。還暦を過ぎたなら、
せめて70歳くらいまでは、そんな気分で元気で何かをしていたい
ものだ。

 パソ通の友人から、年賀メールを頂戴した。ひとりは、サムエル・
ウルマンの「青春の詩」を読み返したとしてその詩(ウルマンのオリ
ジナル詩、作山宗久氏訳)を再掲してくれてあった。もう一人の友は、
自分に課した五戒として次をあげている。

 1.あせるな(冷静) 2.くさるな(精進) 3.まけるな(努力)
 4.おこるな(平常心) 5.いばるな(態度)

 二人の友からいただいた大事なものを有り難く頂戴し、そっくり今年
の自分の生活や行動の指針に取り入れる旨を返事し、ちょっといい次
の五つの言葉を逆に贈った。

 ・一人が燃える 皆燃える すべてが燃える その火種になりたい

 ・社会的、政治的な不正に抗議をしない無関心 戦いもしない無気
  力それで青年といえるか

 ・人は他人とともに生き 人は出会った数ほどその人生がある
  出会いとは他者を通した自己との出会いである

 ・人間は自分の尺度で 他人やものを見る 人がそう見えるのは
  自分がそう見ているからだ

 ・優しい言葉 優しい笑顔 優しい行為 優しさとは人を憂える心

 《以上の言葉は、PHP発行、話力研究所所長・永崎一則氏著「ちょ
っといい話》 《200選」の中から引用したものです。》

  お互いに一年の指標を伝えあって、幸先のよい正月のパソ通交
信であった。
                       1994-1-1 Eーさん


479/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 0015
(10) 94/01/04 05:46 コメント数:1

年賀状考
 1月3日付けの西日本新聞の「春秋」欄に俳人荻原井泉水(1884-
1976)の墨占いの話が紹介されている。筆で一の字を書かせて占い
師はそれを三つに切る。一の字の着け始めの部分、中程の部分、最
後の止めの部分がそれぞれ過去、現在、未来を表し、隅の濃淡で運
勢が分かるのだと言う。一はもっとも簡単な文字で、ただ一本の線に
すぎないが、一人ひとり書く人によって微妙に違い、おのずとその人
の個性というか癖が出る。一の中には、何かその人の「全」が含まれ
ているようにも思われる、という記事だ。

 それがさらに年賀状の話につながるのだが、年賀状を書いた人の
字にその人の全人格がにじんでいて、一枚一枚じっくり見るのが楽し
いと春秋の筆者はいう。ところで、私は手紙はもちろん ・・・ 今年は
喪中につき書かなかったが ・・・ 年賀状も、ワ一プロで打ち正楷書で
印刷する。文明の利器に頼る訳だ。手書きしないのは隠れた理由が
ある。字が下手だからだ。ワープロの実現をもっとも喜んだひとりであ
る。しかし少なくとも宛名くらいは自筆であるべきという人が多い。春
秋士の楽しみ方もあるし、たしかに最低限の礼儀だろうと思う。私も
かって年賀状の句を作ったことがある。

   初便り友のなじみの筆の撥ね  泊舟

 にもかかわらず、つい最近宛名もワープロで打って、投函し、すぐ
あとで後悔した苦い思いが残っている。字は下手でも宛名だけはワ
ープロに頼らず手で誠意を込めて書くべきだと今は思っている。最低
のエティケットだけは守ろうと思う。

 ところで、中身はどうであろうか、わたしはひとが何と思ってもワー
プロで書く。字が下手だから人に不快な気持ちを与えてはいけない
というのが最大の理由だが、では、エティケットの点をどう考えるの
か?という詰問に答えなければなるまい。

 筆書きの“一”の字の中には「全人格」が見えるという主張に対抗
する、ワープロ活字活用論を展開するのは難しい。ワープロの活字
は、正楷書で仕上げれば習字のお手本のような印象がある。しかし、
それはワープロ文字を作った人の筆跡に過ぎず、その文章の書き手
の人格ではない。定形の挨拶状などはそれでも構わないし、大部分
の人がそれで良しとしているように見える。そこで、わたしの対抗論
は、文章そのもので勝負するしかないと考えている。個性をにじませ
た文を作るしかないと考える。

 ワープロで手紙を書く場合、次のことに注意する。

 1.まず、手紙の相手と面と向かって話をするシーンを想像する。何
   よりも形式に過ぎることを恐れるからである。血の通った文章で
   なければならない。
 2.だらだらと長い文にしないようにする。話のリズムで書く気持ち
   を忘れないように心掛ける。書く文章にふさわしい感情がこめら
   れていることが大事である。
 3.相手に伝えたいことを分かりやすく、簡略に、伝えなければなら
   ない。一応書き上げたあと、伝えたい事柄にふさわしい文体に
   なっているか、句読点の打ち方は適当か、誤字はないかを最後
   に点検する。
 4.上のステップを経て仕上げたものを、書き手の気分がその文章
   からまったく離れるまでしばらく寝かせて置く。時を改めて再び
   その文を取り出しそれを受け取った相手になって読んでみる。
   書き直すべきかどうかを考えた上で、必要を認めたら躊躇なく
   書き直す。満足の行くまで修正していくことを面倒がってはな
   らない。

 自分の言おうとすることを納得のいく形で書くことが、その人の個
 性とか人格を表現することであり、字の上手な人の自筆に対抗す
 る唯一の手段であると思う。

                        1994-1-3 Eーさん


482/999 JAH01015 E-さん       Eーさんのつれづれ日記 0016
(10) 94/01/05 23:09 コメント数:1

一年の計は元旦にあり

「これから5年間に、あなたがしていたいと望むことは? では、その
5年間、あなたが実際にするだろうと思うことはなんですか?」

アメリカでベストセラーになったという角川書店発行、グレゴリー・スト
ック著「質問集」の中の質問の一つである。表紙にある宣伝用帯皮紙
に印刷されたセリフはこうなっている。『あなたの心を刺激し、かくれた
「本音」を浮き上がらせる、異色の質問集。恋人や友達と答えを出し合
ううちに、お互いの素顔が見えて来ます。』

日本では「一年の計は元旦にあり」として年初の計画が大事だと昔
から言い継がれて来た。節目節目を大切にし節目毎に何かと気を引
き締めるとういのは、日本人の好むところであり美点であると思って
いるが、ストック氏は5年間と来た。なるほどこれはライフプランの思
想だ。還暦過ぎた人間には、最低の単位として5年間位が適当だと
思う。

先が平均20年あるというご時世では1年の計では短かすぎ、せわし
すぎる。間尺は長いほうが何かと融通が効くというもの。三日坊主と
自他から嘲笑されることもあるまい。

それでは、僕が5年間にしたい(し続けたい)ことを上げてみよう。

1.パソコン通信
2.毎年2回の国内旅行と1回の海外旅行
3.俳句作り
4.朝の散歩
5.わが家のルーツ探し
6.邪馬台国の所在の研究

ストック氏の第2の質問、あなたが実際にするだろうと思うことはどれ
か? まず 1.だと答えておこう。2~3~4は、今、毎日ではないがや
っていることである。5.はまったくやっていない。6.は本格化してい
ない。趣味の程度で関連の本が出るたびに買ってよむ程度。ストック
氏がなぜ第2の質問を用意したのか真意は聞いてみなくては分から
ないが、自信のあることと、そうでないことをはっきり自覚させるのが
狙いだろう。自信のあることは、すでに本人に苦痛でなく実行できる
ことであり、自信のないことは、その理由を具体的に究めさせるため
と激励の意味ががあるに違いない。

あまり自信がない理由は、2.については二人の孫の守りに、ばあさ
んの加勢をすることを誓わされており、時間がそう取れそうにないこと。
連休や、夏休みに娘夫婦が一緒に休暇をとれるかどうかにかかって
いる。3.はなんとかやれそうだが、素質の問題がある。努力するの
み。4.は怠け心との斗い。5.は他県へ出掛けなければならないし、
わが家の家譜を読み解くための変体仮名の研究もしなければならな
いから、時間という2.と同じ理由からである。6.は積年の研究課題
であるがやはり時間が問題である。

言い訳だけを先に述べてしまったが、5年間に上の6つの課題を、ひと
つでも多く継続してやるよう、やれるように努力してみようと思う。

                      1994-1-5 Eーさん

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2004.04.02

Eーさんのつれづれ日記 (3)

454/999 JAH01015 E-さん     Eーさんのつれづれ日記 0009
(10) 93/12/13 07:44

 12月9日付朝日新聞の福岡版《かけ橋》欄に、しっかりと共鳴す
る記事があった。二つほど紹介をかねて書き留めて置くことにする。
二つとも定年に関する記事である。

 《「定年後も晩酌続けて」/ 妻の言葉に感謝の一杯》と題して、

 私が、毎日晩酌をするようになってから、40年ほどになる。晩酌
をするといっても年を取ってからは、それほどの量は飲めない。清
酒をコップ一杯ほどである。

 今年の六月、退職して全く仕事をせず、少ない年金だけの生活に
入った時、酒は飲み続けてもいいものだろうか、と思案した。かと言
って、酒をやめることは、私にとって生きがいを無くすようなものだ。
その晩、妻は夕食の膳に今までの通り、酒の肴をみつくろってくれ、
『酒は飲んでもいいですよ』と言ってくれた。うれしかった。

 私にとっての晩酌は、食欲を増し、体調を整えるための薬であると
位置づけてきた。『今まで通り飲ませてもらううよ』と決めたら、心は
晴ればれとしてきた。

 冷え込む季節となり、酒が一段とうまくなった。一日の恙なきを感
謝しての一杯の酒は、まさに『生ける驗あり』の感を抱かせる。私に
とっての酒は、百薬の長になっている。

 今宵も陶然となり、牧水の歌など口の端に上ろうというもの。「白玉
の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」

                  桂川町古隈、牧 竹雄、70歳
 もひとつは、

  《「余生」忘れ充実人生を》と題して、

 人の生涯は生まれた時に始まり、死ぬ時に終わるものである。人生
に余生はあり得ない。私はこの余生という言葉が大嫌いである。定年
退職後、「余生を悠々自適 ・・・・・」の人生を送っているという人がいる。
「広辞林」によれば、「ゆっくり落ち着いて、世間の煩わしいことより逃
れて、心のままに楽しく暮らすこと」と解されているのだが。

 人間には、余ったものを粗末に扱う習性がある。それで果たしていい
ものだろうか。定年後の人生であれば、なおさら大切にして生き抜く必
要があると思う。それぞれの年齢や体力、能力に応じた生涯目標をも
ち続けることが、その人にとって有意義な充実した人生だと言えるだろ
う。漫然とその日その日を暮らすことは、ボケや病気、老衰への道に
つながり、酔生夢死への最短距離ではないかと思われる。

 私はかって大陸の山野で戦い、多くの上官、同僚、部下を失ってき
た。異国の山野に眠る彼らの分まで長生きして、大したことはできなく
とも、老人会活動などを通じて、社会奉仕に徹したいと考えている。そ
れが私の人生であり、健康、不老長寿の秘訣であると決意している。

 老人の皆さん、「余生」と言う言葉を忘れて、老春を生きましょう。顧
みて悔いのない、充実した人生であるように。

               遠賀町東和苑、志賀 盛、69歳

                           1993-12-11 Eーさん


463/999 JAH01015 E-さん     Eーさんのつれづれ日記 0010
(10) 93/12/16 12:30

童謡と訳詩考

 先週、書店で見かけて「世界童謡集」を買った。この童謡集にはマザ
ー・グースが多い。童謡という文学ジャンルは、おぼろげな子供時代
を、大人になってから、子供の目で、双眼鏡でのぞくようなものだ。童謡
は、幼児の目を通して見た夢幻の世界と、自我と他に次第に目覚めゆ
く子供の心理的な動きを描いたものと言えよう。

 まだ2歳にすぎないが、孫を生まれた当初から間近に見てきた。親を
中心とするまわりの人間、もの、猫や犬、鳥や草花、樹木、車、部屋、
庭、路などの生活直結物。親の与えるおもちゃや絵本、現代ではテレ
ビ等によって与えられる知識としての乗り物、動植物、建造物というよ
うなものが、孫の小さな頭に、言葉とともに認識されていく様を、つぶさ
に観察していると、人間について、楽しい発見があり、楽しみがある。

 幼児はある日突然、はっきり意識した「言葉」を使い始める。単語や
単語の単純なつなぎあわせであるが、子供自身の事物の認識と自己
の主張が大人に明瞭に読み取れるようになる。大人同士で思わず目
を見合わせることがある。問答型から独白型、要求型、主張型と数ヵ
月の間にどんどん進歩する。知能の発達はただ、おどろくばかりであ
る。

 孫を保育園に迎えに行くのに、最近は自転車で行って荷台ケージに
乗っけて帰ってくる。近ごろ、我が孫は、すぐ近くを電車が走っているの
で、踏切の近くに立って電車の通過を見たいと主張するようになった。
《ゴー》というすごい音と風を肌で、体で、髪の毛で、感じたいらしいの
である。わたしは喜んで自転車を転がして踏切の前まで行く。踏切の
赤ランプの点滅と閉鎖棒の開閉、車の停止と発車、この一連の動き
を、不思議な世界と受け取っているように見える。単に動きの快感や
感動を求めているだけなのかも知れないが、幼児特有の世界に浸り、
喜んでいるらしく見える。

 孫の言動に多分に爺の関心誘導があることは認めるが、幼児には
生得的な好奇心と認識欲求、旺盛な知識欲求を認めざるを得ない。
その幼児体験とくに心理的な記憶は、私はほとんど思い起こすことは
できないが、有名な幼児絵本作家とか童謡作家は自分の幼児体験
をしっかりと脳裏に刻み込んでいるにちがいない。私も、内外の童謡
作家のように童謡の形で孫を好材料として何か表現してみたいと思う
ものの、可能性はない。

 難問を自らに課すことは、きっぱりとあきらめて、なぜかこの童謡集
に出ている、あの有名なロバート・ブラウニングの「春の朝」の訳につ
いて、ちょっと考えてみるにとどめたい。上田敏の名訳詩集「海潮音」
では「春の朝」は次のように訳されている。

 時は春/日は朝/朝は7時/片岡に露みちて/揚雲雀なのりいで
 /蝸牛枝に這ひ/神、そらに知ろしめす/すべて世は事も無し

 大正13年5月13日刊行された、西条八十、水谷まさる訳「新訳世界
童謡集」では、「ピパの唄」と題して次のように訳されている。上田敏よ
り約20年後である。

 年は春/今は朝/朝は7時/丘には霧の真珠/雲雀は空に舞い/
 蝸牛は茨のうえ/神は空に--/この世はすべて正しい。

 上田敏訳は文語調、55755の定型詩型の朗々とした荘重体だし、
水谷まさる訳は普通の口語体で、あっさり直訳(?)されている。

 さて、皆さんは上田敏の明治訳と水谷まさるの大正訳のどちらを取る
か。好みの問題と言えばそれまでだが、年齢に大いに関係がありそう
だ。平成の人はどちらを好むのだろうか。昭和の僕は文句なしに上田
訳だ。日本語は、575などのリズムに生理的に馴染むし、なによりも
日本語の詩と受け取れるからだ。しかし、若い人は水谷訳をとるだろう
し、平成の人はこれにも不満でもっと思い切った訳をつけるのではない
か。やはり人間は、生まれ育った環境に縛られるし、時代を逃れること
は出来ないだろうから。

 しかし、童謡として訳すならば、もっと子供の目で訳さなければいけ
ないのではないかという気がする。それとも童謡というのは、所詮、大
人の慰みなのだろうか?
                      1993-12-15 Eーさん


469/999 JAH01015 E-さん    Eーさんのつれづれ日記 0011
(10) 93/12/22 10:40 コメント数:1

忘年会考

 20日朝10時30分、高速バスで雲仙へ出掛ける。主催者と講師
仲間による来年1月~3月の研修内容、日程の打ち合わせが主目的
で忘年会を兼ねての会合出席のためである。「仕事、仕事とおっしゃっ
て、どうせ忘年会が主なんでしょう」と在職時代と似たようなセリフに送
られて家を出た。「傘。ハンカチ、ティッシュウは入れましたか?」も同じ
である。靴は珍しく磨いてくれていた。

 最近の高速バスは快適である。ゆったりとした椅子は一人掛けまた
は二人掛けであり大阪、東京行きはすべて一人掛けでリクライニング
が可能である。おしぼりや熱い湯の出る給湯器が備えてあり、お茶や
コーヒー・紅茶が、セルフサービスではあるが何時でも飲めるようにな
っている。焼酎を持ち込めば、お湯割りができるのである。

 話がすぐ酒のことになって恐縮だが、高速道路のサービスエリアには
アルコールの販売機がない、運転をする者に対しては安全上当然であ
るが、観光を兼ねた者で運転をしない者に対してのみ販売可能な自動
販売機を開発してもらえないかと思う。

 諌早経由で雲仙まで3時間4分のドライブは、快適であった。乗る前
に買い込んだ弁当を車内で食べる。途中映し出されるビデオ映画、
「ピーターパン」(冒頭のタイトルを見落としているので、題名は定かで
ない)を楽しむ。子供向けらしい作品であったが、結構楽しんだ。残りは
うたた寝で疲れはなかった。バスは4時間以内に限るを実証。

 会議は3時からなので1時間ちょっとあったが、同室3名で話が弾
み、温泉に入る間がなく和室の会議室へ赴く、来年の仕事が保証され
たので嬉しい。

 6時より懇親会、反省会を兼ねていつもシリースが終わったらやって
いることであるが、忘年会の意味が加わると、一層楽しい。やはり在職
時代の忘年会の、楽しい面だけがよみがえる。連日連夜という苦しい
忘年会は嫌だったね。退職後の忘年会は数はすくないが、なぜか楽し
い。義理の付き合いがないからだろうと思う。今年は4回である。句友
の会、講師会、大学同期の家族ぐるみの会、最後の職場の四人会。

 句友と講師と同期家族はいずれも退職後の交わりである。いわば新
しい友人である。最後だけが会社関係の延長であるが、うち一人の現
職を除き三人は退職者でありその二人は3~4歳上の先輩である。回
顧談に花が咲くのは最後のものだけであるから、前向きの話題が多く
バラエテイに富むから嬉しいのである。

 その日の雲仙の忘年会は、最後に若い女性が話に参加した。中高
年の男性8人を相手になかなかの話術の持ち主であった。お酒が入っ
ていい気分になった男というのは、ついついきわどい話にしたがるもの
であるが、適当なおとぼけで、話をとことんまで落さない見事な、機知
に富んだ応答振りを見せてくれた。会話に華が咲いたのである。翌朝、
若いけれども昔の一流の芸者にかなうものだと評価する者すらあった。
その場に居合わせる男はすべて先生であると紹介したものだから、学
校の先生か、医者か、評論家か、言い当ててもらうことにしたところ、
小生は、最初のうちは仲間内のサジェスチョンによって産婦人科の先
生に、後に警察学校の校長先生にされてしまった。女性がいると話が
一層はずみ、楽しいものになるということを再認識した一夜であった。

                   93-12-22 10:20 Eーさん


471/999 JAH01015 E-さん    Eーさんのつれづれ日記 0012
(10) 93/12/24 23:19

日本のこわい童話

 童心社発行のフォア文庫、川崎大治作「日本のお化け話」という童話
集を買った。日本のお化けの集大成ということであるが、作者の話によ
ると、日本のお化けたちというのは、今時流行の怪獣やオカルト映画
の化け物とことなり、みんな自分の性格(個性)をもち、その姿も何とも
言えず芸術的で、絵になっているのだそうである。

 《民話だね》《伝説だね》《落語、講談、芝居だね》の3種に分けてや
さしい語り言葉で美しく語られている。お化けの種も動物や人間は言
うにおよばず、道具類から、大判小判のお化けまであり、我々の祖先
は、なんともゆたかな想像力をもっていたらしい。

専修大学教授、松本新八郎氏の解説によれば、川崎氏の子供向け
語り口の中にはヒューマニステイックなロマンがあり、幽霊のもつ日本
的な美しさの方が先ににじみでて、怖いというより、むしろおかしかっ
たり、人のこころがほのぼのと暖まるような感じのものが多い。読んで
見て大人が実際にそう感ずるのである。

 おなじみの、ドロドロと現れる、足のない幽霊が歴史に登場するのは
ずっと新しく、徳川時代も中期になってからのことだそうだ。徳川の中
期から終期にかけてお化けや幽霊が大飛躍をとげた。わが国のお化
け話は魔法使いしか知らないヨーロッパとは比較にならない程多種多
様で、数も多いという。

 民話だねの中から、お化け話というのではないが、極めて華麗な幻
想的な話を紹介しよう。平安時代の今昔物語の「鴬の宿」の翻案であ
るらしいが、高山の蝶におきかえた話となっている。題して「蔵王のち
ょう」である。話のあらすじはこうである。

 昔、むかしの話。侍がみちのくの春をたずねて旅をしていた。里をす
ぎ蔵王のけわしい山道にさしかかるころは全身に疲労があらわれて
いた。「どこかで一休みしたいものだ」とつぶやいてあたりを見まわす
と、林のおくに一軒のあばら家が見えた。戸をたたいたが返事がない。
物音も聞こえない。人が住んでいないのかも知れないと中に入って見
た。「おおこれはまた、なんとひどい荒れようじゃ。そこらじゅうがくもの
巣だらけのあばら家。もうずいぶん人が住んでないのだな」

 侍はそれでも野宿するよりいいと片隅に腰をおろした。広い土間の
向こうの障子がかすかにあかるい。やぶれの穴からそっと中をのぞ
いて見た。とたんに、はっと、息をのんだ。「ちょうだ・・・・」 うす汚れた
部屋の中に、たくさんの蝶が羽を光らせて、むらがり飛んでいた。紫
のちょう、赤いちょう、黄いろいちょう、まっ黒なちょう・・・・・

 なん百なん千という蝶が、まばゆいばかりにかさなりあって、ひらひ
らと舞いくるっていた。それがあんまりきれいなので、侍は、しばらく
のあいだ、ぼんやりと見とれていた。・・・・ 不思議に思った侍は、静か
に障子をあけた。

 すると、なんの羽音もなく、ちょうたちは、ふんわりと、いっせいに
舞いあがって、まるで、美しい虹がきえるように、あっというまに、飛
び去ってしまった。・・・・ 侍は「おおっ。」 と叫んで、あとずさりした。か
らだじゅうが、ぶるぶるっと、はげしくふるえた。飛び立ったあとには、
白い、がい骨が、よこたわっていた。そして、がい骨のながい黒髪だ
けが、まるで生きているように、つやつやと光っていた。(あと省略)

 なんとも、華麗で、ぞっとする話である。幻想である。すばらしい童
話である。
                  1993-12-24 23:00 Eーさん

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2004.04.01

Eーさんのつれづれ日記 (2)

443/999 JAH01015 E-さん     Eーさんのつれづれ日記 0005
(10) 93/12/05 07:23

爺婆の話題から
 2人目の孫の誕生以来はじめてお祝いのために双方の爺婆4人が
相寄った。さっそく孫の顔についての評定が始まる。兄ちゃんの佑一
郎より色が白くて、鼻が高いとか、ハンサムだとか、可愛いかわいい
の連続である。挙げ句の果てにこの顔は俺に似ているとか、いや私の
次男坊にそっくりだとか、てんでに勝手なことを主張し、自慢しあって
いるのである。まさに△△馬鹿の典型である。年をとるとこうもアホに
なるものか。大の字が幾つあっても足りないくらいだ。

 あまり自慢しあっていても仕様がないから、私は次の話を持ち出し
た。孫を持って初めて知る我が生命の連綿についてである。万世一
系の天皇家ではないが、一個人の遠祖すなわち祖先をたぐる数の
話である。20代だけでも溯った場合、果たして何人の先祖を必要と
するのか? という計算は、いまは計算器で簡単にはじき出せる。
それは、なんと、2,097,150人である。1世代平均16歳で子をな
したと仮定しても、実に320年の歳月である。しかもこの間、一人で
も欠けたらこの「孫」はないのである。

実際大変な数の実存を必要とし、子を生み続ける健全なる遺伝子
を要したのである。この数字には崇高性すら覚えるであろう。実際
この数字を私から聞いてしばし相手の爺は絶句した。生命の連続性
の素晴らしさを、爺婆4人あらためて自覚、乾杯したのであった。

 祖先の崇拝などという言葉を持ち出すならアナクロニズムと一刀の
もとに切り捨てられようが、上の数字を出せばいかな現代っ子といえ
ども、個人の生命の尊厳とその連続性について驚嘆し、己の生存の
意味を納得するのではあるまいか。新人類、ホモ・サピエンス・サピ
エンスは4万年前からこの地球に誕生したといわれる。日本人の元祖
の発生もこれに結び付いているだろうから、大変なまさに天文学的遠
祖の数になるだろう。この孫には、実に重いが強く生き抜いた過去の
歴史が体内に秘められているのである。

P.S. 上に出した祖先の数は、昔は同じ親がダブっていたことがあっ
たろうから、絶対数ではないことを考慮すべきであろう。それにしても、
一つの生命の連綿性と強靭さは太古から考えると実に神秘的で驚異
だと言わざるを得ない。

                         1993-11-30 Eーさん


445/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0006
(10) 93/12/06 06:56

定年談義の部屋
 ここ数日#5室で定年談義が盛んである。メローフォーラムに定年の
SIGなきやとワープロ仙人さんがひとりごとのように、その設置を呼び
かけておられるように私は受けとめている。数カ月前わたし自身、メロ
ーフォーラム会議室見直しの際そのような場があってもいいと、発言
したことがあった。

 定年退職の経験者とこれから後を追って来る人々がいる。そこに
何らかの話合いの場が持たれるということは、意味のあることだと
思う。特にバブル崩壊後の不景気風が冬の到来とともに、日本の
社会を肌を切る《こがらし》の如く吹き荒れている昨今、「定年」「退
職」「転職」「休職」「首切り」が40代から50代の人々を脅かしてい
るようである。想像以上にきびしい様相を呈している。

 定年をどう理解し、いかに対処するかということは、日本の中高年
サラリーマンの極めて重要な心配事であり、将来への不安材料であ
り、定年前に解決しておくべき課題になっている。そのために10年
位前から、大企業や地方自治体で退職前研修が行われるようにな
っているが、その必要を認めながら実施しえない中小企業がまだま
だ多い。こんな不況下ではなおさら難しくなった。

 21世紀を迎え2020年の超高齢化社会への進展に伴い、定年退職
者の不安はますます増大するであろう。バブル崩壊前では、いや今で
も退職者に対して従来の会社人間の在り方を批判し、その家庭生活
を反省させる反面、将来の輝かしい老後の生活の可能性を暗示して
見せる、退職準備研修の手法をとっているように思う。

 現に、先日「定年は職場からの引退ではあっても人生からの引退
ではない」という有名な言葉を引用し、定年は新しい人生へのスター
トであると激励する言葉を紹介しておいたが、内心以前にくらべ自信
をもって言えない自分を感じていることを告白せざるを得ない。個人
努力の限界を感じさせる、厳しい客観情勢の逼迫を感じるからである。
明るい未来像を示すことが、何となく憚られるような気がしているので
ある。

 しかし、「いたずらに明日を思いわずらったとて何になろう。楽天精神
は、先行きの見えぬ混乱の時代にこそ必要であり、欠くことのできぬ
人生の知恵というものだろう。要は、目先の問題に振り回されぬ息の
長さと骨の太さを保つことができるかどうかである。」(この結論および
唐末の詩人、硬骨漢、羅隠の漢詩と解釈はともにPHP発行、奥平卓
編集・著「唐詩選」より引用した。)

    自ら遣る     羅隠

  得即高歌失即休 多愁多恨亦悠々
  今朝有酒今朝酔 明日愁来明日愁

  得れば即ち高歌し、失えば即ち休す、多愁多恨また悠々
  今朝酒あれば、今朝酔い、明日愁い来たれば、明日愁えん

  志を得れば歌い失えば黙る。苦しみ多い世の中だが、構えはいつ
  ものんびりいこうぜ。今日酒があれば今日よっぱらい、明日の悩み
  は明日にまわそう。

                        1993-12-1 Eーさん


447/999 JAH01015 E-さん     Eーさんのつれづれ日記 0007
(10) 93/12/08 07:34


 「眠られぬ夜のために」というヒルテイの本があったっけ。

 今、午前1時34分である。昨夜は食事を娘の家でして8時半に就寝
した。疲労を覚えたからである。11時半に目が覚めトイレに行って夜
のダウンをやり、12時に再びふとんに潜ったが眠れない。こうしてまた
起き出してワープロに向かった次第。

 昼間は結構やることが多い。今日はまず、「喪中につき・・・・・・」の挨
拶状の宛名27通の打込みをやり、本文と宛名の印刷。共通のものも
あるが、ほとんど家内関係の追加分である。昼食を挟んで3時間位か
かってしまった。

 次が、マンション管理組合の仕事である。はっきりした定職がないこ
と年齢的に老いていることを理由に初代理事長を引き受けさせられた
ばっかりに雑用が増えた。共有施設の不備が多く、この半年間、売っ
てしまえば後は知らぬ顔の、施工・販売会社と喧嘩ばかりやってきた。
今のところ8割方勝利を収めたが、2割方棚上げ状態にある。

 その前に専用部分の1年及び2年点検・補修の調査準備、業者との
日程調整に時間と労力を取られた。販売期間がバブル崩壊にさしか
かって、売れ行きが悪く入居者が一斉でなかったので補修の時期が
ばらばらになった。最近若い人は共稼ぎが多く、日中は留守が多いの
で土日を入れざるを得ない。回覧板もなかなか最後まで回らない。急ぐ
ときは夜電話してまとめねばならない。会社でやるようには行かない。
しかし、サラリーマンの悲しい習性か、どんなに小さい仕事でも段取り
をつけて、次々に適切な手をうって行くのは、そんなに楽しくはないが、
苦しくもない。ときに仕事の出来栄えや成果を自画自賛している。家内
はめったに褒めてくれない。「はい。はい。立派にできましたよ。」と皮肉
られるのがおちだから、自分で褒めなければならない。

 しかし、ここの住人に頼られているのも満更ではない。いまのところ無
報酬だから、ボランテイアだと思っている。自分の直接利益もからんで
いるから、ボランテイアとは言いきれないが、頼りにされてする仕事は、
結構やり甲斐があるというものだ。

 師走に入り慌ただしさが身辺にただよい始めた。しばらく続いた寒波
がまた緩んで来た。世のなか不況風が吹き荒れているようだ。風邪な
ど引かぬよう注意しなければならぬぞよ。来週と再来週またアルバイト
の出講が始まる。長崎と熊本行きだ。これが今年の最後の仕事である。

                        1993-12-3 14:30 Eーさん


450/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0008
(10) 93/12/10 07:47

 12月6日~7日に15年振りに長崎に行く機会があった。仕事を終え
て真っ先にかけつけたのは浦上天主堂である。天主堂への坂道となっ
ている入り口の前の道路でタクシーを降りた。坂を上がると、すぐ右手
に赤煉瓦双塔の堂々たる教会建築が見えてきた。私は天主堂の真っ
正面に立って、頂きを4~5分間見上げていた。天主堂は1980年
ヨハネ・パウロ2世来日の折、完全に改装されたものである。

 あの歴史的瞬間、昭和20年8月9日11時2分、原子爆弾炸裂によ
って一瞬に倒壊した有様を思い浮かべた。天主堂のみならず、当然
一面死の灰に覆われた市街、建造物、山林、草木。一切の崩壊の
惨状、死傷者14万人以上の生き地獄は、当時の写真や報道、体験
報告等によりリアルに想像出来る。その瞬間、教会のなかで祈りを
捧げていたであろう信者、神父、教職者の悲惨な姿や教会倒壊の
模様が、チラッと脳裏をかすめた。

 聖堂のなかに足を踏み入れた途端に、文字どおり、物音ひとつな
い、森閑とした、崇高な、聖なる空気を感じた。打たれたと言った方が
いい。身も心も洗われるような冷気に、ひたひたと浸ったという形容
が、正しい表現であろう。

 いつも思うのだが、カトリック教会の内部の雰囲気は、信徒でもない
者に、どうしてこんなに清浄・崇高な感じもたらすのであろうか。思うに
大理石の立派な祭壇、キリスト磔刑像。天井が高くステンドグラスの
窓が大きくて多いということ、またその窓や壁にキリストの生涯図絵、
受難図、最後の晩餐、生母マリア像等が、描かれているからであろ
うか。

 お寺や神社における雰囲気も、それなりに独特な宗教的荘厳さを
感じさせるものがあるが、教会の雰囲気は ・・・ 特にこの天主堂の
清澄な荘重さは ・・・ 高さと明るさと広さと静寂とステンドグラスの
光と影の効果が大きいように思う。それにキリスト教弾圧、ピカドン
被爆地であるという地理や歴史が大きな影響を与えていると思われ
る。久しぶりに宗教的《荘厳》と精神的《慰安》を感ずることが出来た。
思惟観音像を安置したお堂や裏の自然山を神体とする神社の本殿
等においても、共通の雰囲気は感じられるのであるが、やはり、この
時はキリスト教に特有の「天にまします神」を感じたのである。

 いま考えると、この時、信者でもない私が感じた特殊な感情は、たし
かに宗教以外の要素や宗教的芸術性がからんでいたと思う。

 このあと、平和公園の逞しい平和祈念像を見、冬紅葉の残る石畳を
降りて、爆心地記念塔、国際博物館、原爆資料館をめぐり、市電で、
JR長崎駅へ向かった。

    冬空へ突きさす指の太さかな   泊舟
    冬の日の木漏れ日浮かす石畳   泊舟

                          1993-12-8 Eーさん

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2004.03.30

Eーさんのつれづれ日記 (1)

ほぼ10年前にニフティサーブ、Fmellow「えふめろう文集」へ投稿した
ものです。随筆風に書いた日記です。その頃のことを思い出しながら
読んでいただけたら、筆者としてこんな嬉しいことはありません。

                            Irebun


426/999 JAH01015 E-さん      Eーさんのつれづれ日記 0001
(10) 93/11/29 07:19 コメント数:3

 クラシックへの郷愁を呼び起こされた私は、久しぶりにモーツァルトの
交響曲第40番、第41番をレコードで聴いた。ボリュームをいっぱいに
上げて。41番を聞き終えるころ電話のベルがなった。慌てて小さくして
受話器を取るとベルは鳴り止んだ。上の階の住人からだったのだろう
か。もしそうだとしたら悪いことをした。いささか悔悟の念に駆られるが
今宵は許したまえ。十分にモーツァルトの晩年の音楽に酔ったのだか
ら。

 ひとり暮らしの気ままな生活を一昨日から楽しんでいる。去る17日に
第2番目の孫が生まれた。家内は生み終えた娘と孫の面倒を見るた
めに産院へ詰めきりになったので一日中いない。だから家内には悪い
が、気ままな生活を送っている訳である。

 ところで、天才モーツァルトは弱冠35歳で死んだ。40番を作曲した
のは、33歳の1788年7月25日、それから2週間して41番を物にし
たと書いてある。たった2週間であの《ジュピター》を完成したのだか
ら、まさに天才であり33歳にして晩年と評論家から言われる程の深
みと精神性をもった交響曲を作っているのである。

 ト短調の第40番は、数少ない同じ調性の交響曲第25番、弦楽5重
奏曲第4番とともに私の好きな曲である。こう言ったら、暗い曲だけが
好きなようであるが、実はモーツァルトの軽快で、澄んだ、陽気で、天
国にいるような曲がもっと好きである。ただこのト短調を聴くときはやは
り気分が少し重いときが多い。いや多かった。ながいこと聴いていなか
ったのでどうかなと思ったが、このレコードから受ける印象は若いときと
まったく変わらないと思った。変わらない自分を発見して驚いている。

 指揮者と交響楽団の組み合わせは、同じ作曲者の音楽を無限に変
える。わたしの聴いたレコードは、昔定評のあったブルーノ・ワルター
指揮、コロンビア交響楽団である。彼の音楽は、悠揚迫らざる、ゆった
りしたテンポで、心にくいまで情感をこめる演奏であるが、曲が曲だけ
にいささか趣を異にする感じもある。しかし、やはりそのような感興を覚
えさせるところがあった。

 ひとりですき焼きの夕食をつくり、焼酎1合を5:5でお湯割りにして
2杯ほど飲み、ほろ酔い気分で聴いたせいか、第41番は評論家のい
う明朗幽玄、燦然、幸福、悲哀、確信といったような気分に浸り得たの
は幸せである。今宵は実にすばらしい!

 では、この気分で休むとしよう。みなさん、お休みなさい。

                    93-11-25 11:45 Eーさん

Eーさんのつれづれ日記を再開したいと思います。こんどは、その日
の出来事とか関心事、あるテーマについての感想等をこころゆくまで、
ほぼA4の1ページ位の分量で書きたいと思います。したがって毎日
とは限りません。2~3日に1回くらいになるかと思います。しかも、1
週間くらい寝かしたものとなります。毎日はやはりきついので、自由に
ゆっくりペースで書きたいからです。画面を汚しますが、なにとぞよろし
くお願い申し上げます。励みになりますので、どのジャンルでもコメント
は歓迎です。
                        以上 Eーさん


431/999 JAH01015 E-さん     Eーさんのつれづれ日記 0002
(10) 93/11/30 07:23

 いま福岡はあい継ぐ古代遺跡の発掘で連日新聞記事が賑わってい
る。弥生時代の大型建物の柱跡が出て来たからだ。遺跡の発掘と
云えば、数年前のあの佐賀県吉野ケ里の環濠集落を皮切りに、その
後福岡県では吉武・高木遺跡、最近では平塚・川添遺跡、雀居(ささ
い)遺跡と相次いでいる。

 昨日は、『文明のクロスロード・福岡』地域文化フォーラム、文明交流
シンポジウム<大型建物の源流を探る>を聞きに行った。来聴者の
興味は弥生時代に高床式の大型建物があったのかどうかの議論にあ
るらしい。しかしこのシンポは、中国・雲南学術調査団(団長・鳥越憲
三郎大阪教育大名誉教授他6名)の調査報告が中心であった。

 パネル・デイスカッションでは発掘された主柱跡から高床式か平屋式
かの推論について、建築学者と建築家であり東南アジアの稲作少数
民族の住居研究家の意見対立という形で話を盛り上げようとの魂胆が
ありありであったが、僕の最大の収穫は前々から興味を抱いていた日
本人の源流が明らかになり、「縄文以前から縄文期を通じて住みつい
ていた人々と、弥生時代に雲南地方から稲作文化を背負ってやって
来た人々との混血の結果出来あがったのがわれわれ日本人である」
という実感と実証を得たことであった。

 この調査団の団長、鳥越憲三郎(79歳)教授の独特の「倭族論」は
特に注目に値する。「倭族とは日本人と祖先を同じくして文化的特性を
共有するという意味。雲南のてん池(さんずいに眞とかく漢字)湖畔で
初めて水稲栽培に成功した倭族が、自ら 『炊事の火』 を守るために
高倉式住居や穀倉を考案した。倭族は、その後の民族移動で東南
アジアへ、また楊子江をくだり海を越えて日本列島まで分布した。・・・」

 我々にそっくりな彼等らの顔付きや動作および現存の雲南地区に
住む倭族(総称)の村落や家屋の構成、生活実態(これはまさに敗
戦まで日本の日常生活に隈なく見られたものだった)をビデオや写真
で見ていると、日本人および日本文化の雲南起源説に強力な説得力
をもつものであった。しめ縄とか餅つき、高床に作られたいろり、聖林
の中の高床式の神殿等いずれもそうだし、さらに強烈なのはシンポの
なかで出て来た発言「日本人は靴を脱いで家(床)に上がる習俗をも
つ唯一の民族である」という指摘だった。

 鳥越教授のいう「倭族」が今の日本人の「稲作を中心とする生活文
化の」基本をもたらしたのであり、その約2千年の生活史をもつ日本
人に対する、現在の《日本特殊論》の原点をなしているのである。もち
ろんその「特殊論」が見直されなければならない時期に来ていること
は言うまでもない。しかし民族性というものは極めて根深いものであり、
一朝一夕にして簡単に変わるものではないことを十分認識しなければ
ならない。

                    93-11-27 13:35 Eーさん


436/999 JAH01015 E-さん     Eーさんのつれづれ日記 0003
(10) 93/12/02 07:18

 クレオール化という言葉をはじめて知った。11月28日の『朝日新
聞』に映画監督篠田正浩氏が、いま何が問われているのか「文明の変
容と伝統」と題して日本の文明というか固有の伝統を守っていきたいと
主張している。「舞姫」の撮影で1年ほどベルリンに住み、欧米の都市
が零下30度の酷寒に見舞われる事実を経験し、それに耐えうる建物
が建てられ、都市計画が作られたのだということの認識の上の発想で
ある。

 クレオール化とは、おもにヨーロッパの植民地が支配者の影響をう
け、その母語とヨーロッパ語とが混じりあい第3の言語が生まれ、その
地域の母語になるという文化人類学の言葉らしい。政治や文化面でも
同じような現象が起きているという訳である。

 「憲法9条も、本来日本固有の根本方針であるべきところに占領者で
ある米国の思想と戦略が上からかぶさっている、いわば政治的クレオ
ールだ。その意味では、米国に守られた日本が、戦力を放棄すると
書くべきであった。・・・」

 お互いを水っぽくするクレオール化に対抗していかなければならな
い。ベートーベンの第九で年を越すとか、江戸時代から明治にかけて
の京都の民家が、櫛比(しっぴ)していたのがこの数年で消えていく、
このことは京都と言う伝統が消えていくことを意味しているという。「特
に日本におけるクレオール化はイミテーションゴールドを産出している。
本来他者が絶対にまねのできない輝きをもっているのが、文化である
はずだ。」

 まだいろいろ例をあげて説明しているが、最後に小津安二郎さんの
映画についても触れてある。篠田監督は「彼の映画は日本的という人
がいるが、それは違う。生活もモダニストのそれだし、映画の手法も
実に論理的で、むしろ西洋の語法だった。私は、日本を日本語の語法
で撮り続けたいと思う」と述べる。

 時代の進行につれて生活そのものが変わって行く。ビジネス用建物
や居住家屋が戦後、特に都市部において高層ビル化して、いわゆる
欧米風に変わって行ったのはやむを得ないことであったろう。しかし、
いわゆる日本独自の文化として、他に変えがたい、古きよき伝統的な
ものは、やはり、大事に残して置きたいものだ。

 生活に直接かかわりのある日本的なもの、例えば「たたみの生活」
なるものは、先日触れたように、稲作とともに日本人の生活になじんだ
もの故に捨て難い。その土地の風土に根差して発達して来たもの故
に、単に西欧的合理性のものまねは日本的合理性を破壊するもので
あって、我々は十分にこれを理解し、篠田監督の言う通り「いま起きて
いるクレオール化という文明の変容を、傍観するのではなく、それに
積極的に立ち向かうことが大事。そのための戦略が、真の伝統、自ら
の輝く伝統を守ること」になるのだ。

                     1993-11-28 Eーさん


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(10) 93/12/03 07:48

玉門関への迷走物語

 ペンギンさんの中国は蘇州・杭州訪問記を読んでまだ見ない中国
の都市をつぶさに脳裏に描くことが出来たが、もう14年前になってし
まった1979年6月の「敦煌」への旅の途次、玉門関を訪ねた時のこ
と~云わば旅の原点~をなつかしく思い出した。

 シルクロードの重要な堡塞の遺跡として敦煌近辺に「玉門関」と
「陽関」がある。我々旅行業者代表調査団は、中国国際旅行社に
この2大遺址を是非みせて欲しいと申し入れていたのであったが、
当時該旅行社にはバスはあるがジープの所有がない。革命委員会
所有のものを借用しなければならないとのことで、この日2台しか用
意出来なかった。従って玉門関へは団員を半分に分け、7名プラス
通訳1名計8名でジープ2台に分乗して出掛けることになった。

 玉門関は敦煌の西西北約85Kmのところにあり、当時この地を訪
れた日本人は殆どないということであった。運転手も通訳も初めて
だった。ジープは道が悪いのでスピードが出せない。時速20~30
Kmで進む。始めの1時間半くらいは、左手前前方かなたに灰色の
砂山の山波が見えていたが、2時間も走ると四方すべて地平線であ
る。乗っているジープのエンジンの音以外に何も聞こえない。ただ黙
々と、生気を抜き去った、黒っぽいゴビ砂漠の、異様な、死と静寂の
別世界を走りに走る。動くものは先頭車の後姿のみ。ときたま蜉蝣
(かげろう)が立ちのぼり大気がただゆらゆらとゆれるのを凝視する。
窓ガラスが黒っぽいので夕闇をゆくような感じでこころ細いことおびた
だしい。

 遠い過去を思い起こさせるかの如く土の塊がポツンと立っているの
が見えて来た。烽台の廃墟であろうか。やがて向こうから馬車が2台
やって来た。荷台には薪を積んでいる。小さな驢馬を休ませ自らは
食事をするのであろう。行き違う前に停止した。車を止めて写真を撮
る。何にもない砂漠の中では格好の被写体である。近くの砂上には
動物の屍体が横たわっている。干からびた肉とアバラ骨を晒した牛の
死体であった。すかさずシャッターを切る。

 『もう少しで目的地が見えてくる筈だ』と言いながらさらに走る。だが
3時間走っても目的地につかない。道を間違えたらしい。突然一軒家
が現れた。一家族住んでいるらしい。家の前に井があった。地下水が
あるらしい。ただ何のためにこの一家はここに住んでいるのか、さっぱ
り見当がつかない。方向はさほど間違ってはいなかったらしい。少し
進んで右へ折れれば玉門関だという。

 一応安心して、また走り始める。・・・ しかし右へ折れる道がない。
いや、わからないと言った方がいい。車が通ったような道が光って見え
るが、近づくと道ではない。道ではないとしてさらに進む。20~30分
走ったであろうか。それらしきものがない。こんなに走ってガス欠に
なったらどうしよう。恐怖に似た感情が車内を走った。運転手も黙って
いる。ただ前車を追うのみ。油量計は、最初から満タンを指したまま。
水はない。食べ物もない。着た切り雀 ・・・・・だ。

 突然、小高い砂丘の上に出た。眼下に開ける広大なオアシス。紺碧
の湖、燃える草原、幾千の馬、牛、羊の群。・・・・・ 思いもかけぬ生命
の輝き。躍動。この世ならぬ、筆絶の、無限に広がる緑と青の世界。
それになつかしの人がいる!湖畔で食事の火を焚いている。 ・・・ 全員
に名状しがたい歓びが湧き上がって来た。3時間30分余でやっと
玉門関にたどり着いたのであった。

 堡城は方形で西北に二つの入り口をもっていた。 高さ7.5メートル、
壁辺の長さ24.8メートルという。2000年の歴史に耐えた容姿は崩れ
たりとは云え立派であった。帰路は道もわかり2時間20分で敦煌に
無事帰って来た。3時間半遅れた昼食の旨かったこと。 

 この玉門関への迷走と、宿泊所となった敦煌県革命委員会招待所
の土間式客室や固い簡素なベッド、毎朝洗面用に、洗面器へ一杯だ
けの水のサービス。生温い湯もすぐに出なくなってしまう シャワー、
囲いのない例のトイレなど、この時ほど旅(トラベル=トラブル)の原点
ともいうべきものを、味わい、且つ考えさせられたことはなかった。

 最後に、玉門関を詠った漢詩二つを紹介して今日の日誌を終わると
しよう。

 涼州詩    王之渙作          従軍行    王昌齡作

黄河遠くに上る、白雲の間       青海の長雲、雪山に暗し
一片の孤城、万仞の山         孤城はるかに望む、玉門関
羌笛なんぞ用いん、楊柳をうらむを  黄砂百戦、金甲を穿つ
春光わたらず、玉門関        楼蘭を破らずんば、ついに帰らず

                 1993-11-29 Eーさん

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